2頭の子を連れたヒグマの母親が湖畔に現れた。電気柵越しに、わずか5メートル先に立つ観光客が一斉にカメラのシャッターを押す。野生のクマたちに、人を怖がる様子はない。座り込むと、子グマを抱えて乳を飲ませ始めた。 ロシア極東・カムチャツカ半島南部の自然保護区にあるクリル湖周辺には、約400頭のヒグマが生息する。基本的に単独で行動するクマを同時に20頭以上見られる時もある、世界でも珍しい地域だ。 日ロ首脳会談でプーチン大統領が開発に意欲を示したロシア極東地域。目玉の一つが、雄大な自然が手つかずのまま残るカムチャツカ半島だ。ロシア政府は国際的なリゾート地にしようと、昨年8月に中心都市の一帯を観光特区に指定した。1980年代まで国民でも一般人は立ち入りが規制された地に、世界中から観光客が訪れ始めている。(カムチャツカ半島クリル湖=中川仁樹)
■ベニザケで赤く染まる湖にクマ
湖の中が、赤く染まっているように見えた。 カムチャツカは7種類のサケ属が見られる珍しい地域だ。特にクリル湖には大量のサケが上ってくる。 産卵が近いベニザケは体が赤くなる。その群れが浅瀬に近づいていた。背びれが時折、水中から出るたび、バシャバシャと大きな音がする。 ヒグマがサケを探して、湖をじっと見つめた。狙いを定めると一気に加速。豪快に水中に飛び込む。捕まえると、尻尾を上にしてかぶりつく。 ログイン前の続き「ゴリ、ゴリ」と骨をかみ砕く音が湖畔に響く。 特に卵(イクラ)は大好物だ。残りの身を捨ててしまうこともある。 電気柵で囲われた居住区域を出る際には、銃を所持する保護官が同行する。アレクサンドル・バラフチンさん(21)から、クマを刺激しないよう注意された。 「急に走らない」「クマの目をじっと見ない」 ヒグマは巨体に似合わず、100メートルを約6秒で走る。木にも登れるので、逃げ切ることは不可能。「寝たふり」は、走って逃げるよりいいが、効果があるかはクマ次第だという。 湖岸を、子連れの母グマが歩いてきた。子グマは私たちを見ると止まり、戻ってしまった。怖がっているようだ。何度も同じ場所を行き来する。バラフチンさんが「母グマがいらだっている」と口にした。 親子が目の前を通る。距離は4メートルほど。心臓の鼓動が速くなる。母グマが立ち止まる。バラフチンさんが「立ち去れ」と叫んだ。 再び動き出した母グマは通り過ぎていった。思わずほっと息をついた。 湖から流れ出る川に着くと、ほとんど水が無い中をサケが懸命に上っていた。林の中から体重500キロはあるかという巨大なクマがゆっくりと近づき、簡単に捕まえて食べ始めた。 「カサノバだ」とバラフチンさんが言った。特徴のあるクマには名前がつけられている。カサノバはこの地域で最も大きいオスだという。周囲には、卵のある腹だけを食べられたサケの身が散乱していた。
■観光客10年で10倍 自然保護との両立、課題
カムチャツカ地方の中心都市、人口18万人のペトロパブロフスク・カムチャツキーからクリル湖への移動手段は、基本的にヘリだけだ。約2時間かかる。不便な地域だが、ヒグマ目当てに湖を訪れる人の数は、2007年の約290人から15年は約2700人に。10倍近く増えた。 電気柵で囲われた約1万平方メートルの「居住区域」は湖周辺に2カ所ある。簡易ベッドが置ける大型テントは09年、水洗トイレが15年と整備が着実に進んでいる。14年にできた食堂では、温かいスープなど手作り料理を3食食べられた。 現地で目立ったのは、欧州からの観光客だ。イタリアから訪れたフランチェスコ・マコガさんは「火山が多くあり、クマが間近で見られる。素晴らしい写真を撮れた」と喜んだ。 ルーブル安を追い風に、カムチャツカ地方への観光客数は、14年の7万5千人から15年は15万人に、1年で倍増した。航空便や宿泊施設の不足に対応するため、ロシア政府は昨年8月、観光特区を指定。今後は官民合わせて360億ルーブル(約580億円)をかけ、空港や港湾、ホテル、温泉などの整備を進める。 一方で、カムチャツカには多くの自然保護区がある。クマなどを狙う密猟の取り締まりなどにも力を入れており、森林動物保護局のウラジーミル・ゴルジエンコ局長は「対策費は過去8年で2倍に増えた。高性能カメラや巡回用車両などを導入した」と話す。ヒグマの生息数は、02年の約1万7千頭から16年は約2万3千頭に増えた。
→朝日デジタル →PDF |