コラム2014

コラム2014





元ソ連スパイが見た原爆 投下直後、米より先に広島・長崎へ  <朝日新聞 2014年11月11日>
 14/11 #14-20


  モスクワで今年、101歳の男性が生涯を閉じた。原爆が投下された直後の広島、長崎へ、米国よりも先に調査に入った当時のソ連軍のスパイだった。報告書の所在は今も分からないが、元スパイは晩年、その内容を明かしていた。

■「SFのよう」言葉失った
  スパイはミハイル・イワノフ氏。第2次世界大戦末期は東京のソ連大使館に在籍していた。
  「彼が日本人を悪く言うのを聞いたことがない」。日ロ関係史を研究するアレクセイ・キリチェンコさん(78)は、自宅があるロシアのモスクワでこう振り返った。かつて旧ソ連国家保安委員会(KGB)第2総局(防諜〈ぼうちょう〉局日本担当)に勤め、「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)の著者でもある。
 生前のイワノフ氏はキリチェンコさんに対し、国家の命令で調査した原爆投下直後の広島、長崎での体験を語っていた。キリチェンコさんはその証言の記録をまとめていた。
■  ■

 米軍は1945年8月6日と9日、広島、長崎に原爆を投下した。8日に日本に宣戦布告したソ連は原爆を開発しておらず、威力の解明を急ぐ必要があった。
 イワノフ氏と同僚のゲルマン・セルゲーエフ氏は上層部から指示され、終戦翌日の8月16日に広島へ、翌17日に長崎へ入った。米国が広島で予備調査を始める20日以上も前だった。
 2人は列車で広島駅にたどり着いた。想像した被害をはるかに超える「SF世界のような光景」に言葉を失った。「恐ろしい病気がはやっている」。日本の公安職員から「視察」を控えるよう説得された。
 爆心地を突き止め、爆発でできたくぼみの深さを確認する――。爆弾の威力を算定するデータとなる状況をつかむことが最大の任務だった。だが、爆心地で見たのは約1キロ四方の真っ平らな空間。巨大なローラーで突き固めたようだった。
 異様な色に溶けた石を拾っていた時、吐き気をもよおすような臭いがした。残留放射線の影響や怖さを知らないイワノフ氏らはそれらを包み、かばんに入れていった。
 長崎では、米国の偵察機が原爆投下前に空からまいたという警告の紙片を見つけた。生き残った人はがれきを使い、一時しのぎのあばら屋を建てていた。死体から出る臭い、うめき声、叫び声……。役所の建物の床で一夜を過ごしたが、一睡もできなかった。
■  ■

 イワノフ氏とセルゲーエフ氏は、原爆投下直後の被爆地で残留放射線を浴びていた。日本で戦後にできた被爆者援護法に照らせば、「入市被爆者」にあたる。調査後、セルゲーエフ氏は体調を崩して死亡。だが、イワノフ氏は生き延びた。
 2007年11月。95歳になったイワノフ氏はキリチェンコさんに「調査報告書や回収品、写真は全て最高指導部に上げた」と語ったという。だが、報告書の所在は今も分かっていない。

■ウイスキー、生死分ける? 科学的な定説ではないけれど…
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏の生死を何が分けたのか。イワノフ氏は東京から広島へ向かう列車の中でサントリーのウイスキーを1人で1本空けた。セルゲーエフ氏は酒を断っていた。
 その後、ソ連は原子力施設で働く職員に少量のアルコール摂取を義務づけ、原子力潜水艦では、摂取のための一杯を「イワノフのコップ」と呼ぶようになったという。独立行政法人「放射線医学総合研究所」によると、アルコールと放射線をめぐっては、「ビール成分に防護効果を確認した」とする研究成果がある。一方で、科学的な定説にはなっていないという。
 イワノフ氏の05歳の誕生日を祝った際、キリチェンコさんはサントリー・ウイスキーを贈ったという。

 (核と人類取材センター・副島英樹)

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(左)長崎の爆心地から約1キロ地点=ソ連が1946年9月、長崎に派遣した調査団の報告書から/(右)ミハイル・イワノフ氏=2007年、キリチェンコさん提供
元ソ連スパイが見た原爆 投下直後、米より先に広島・長崎へ <朝日新聞 2014年11月11日>
元ソ連スパイが見た原爆 投下直後、米より先に広島・長崎へ <朝日新聞 2014年11月11日>

天使のピアノによるコンサート    (都連広報部報告)
 14/11 #14-19
 11月9日(日)滝乃川学園・聖三一礼拝堂(国立市谷保)にて「天使のピアノによるコンサート」が開かれた。コンサートで使用されたのが、現存する日本最古のアップライトピアノで話題を呼んだ。鍵盤の上に2人の幼児を抱いた天使が描かれていることがその名の由来である。当日は、激動の時代を乗り越えてきたピアノが妙なる調べを演出してくれた。
 出演は、平岡貴子(ソプラノ・都連城東支部会員)・岡野屋正男(テノール)・高橋裕希子(ピアノ)の各氏。披露された曲目は、愛の夢(リスト)・メリーウイドーワルツ(レハール)・天使の糧(フランク)・アヴェマリア(カッチーニ)・初恋(越谷達之助)など。
  歌唱の見事さもさることながら「天使のピアノ」のやわらかで繊細な音色の演奏に満場の聴衆は大きな感銘を受けた。

※『天使のピアノは、横浜でピアノの輸入・加工・販売をしていて、わが国におけるピアノ普及のパイオニア的存在だったドイツ人技術者、デーリングの商会が1884(明治17)年から89(明治22)にかけて販売したものの一つで、国内最古級、しかも、これまで記録でしか知ることのできなかった「幻のピアノ」で、ピアノ文化史上たいへん貴重なものであることがわかった。』(出典:天使のピアノ 石井筆子の生涯)
天使のピアノによるコンサート14/11/09天使のピアノによるコンサート14/11/09天使のピアノによるコンサート14/11/09

日本中古車、華麗な転身 ロシア極東、ドリフト人気  <朝日新聞・夕刊2014年10月8日>
 14/11 #14-18

 シルビア、マーク2、スープラ……。懐かしい日本の中古車が、ロシアのモータースポーツで活躍している。フィギュアスケートのように、走りの華麗さを競う「ドリフト」で、手頃な価格と運転のしやすさが人気の秘密だ。
 「3、2、1」。カウントダウンが終わると同時に2台の車が猛烈な勢いでスタートした。日産自動車のシルビアとスカイライン。ともに10年以上前の車だ。カーブに来ると、並んだまま車の後部を大きく振り、斜めになって曲がって行く。
 ロシア極東のウラジオストク郊外で9月19〜21日に開かれたドリフトの大会。レース場には、1990年代を中心に日本の名車がずらり。多くが、カタログから消えて久しい名前だ。

■自由に改造

 一番人気はシルビア。地元選手の上位16台中、7台を占めた。チブチャン選手(28)の愛車は99年式。10年前、静岡県で数十万円で買った。鮮やかな黄色に塗り直されて新車のようだ。「車体のバランスがとてもいい」とほれ込む。トヨタ自動車のマーク2は「サムライ」の愛称で親しまれている。サボーチキン選手(27)は、ドアもエンジンもない95年式の車体を購入した。「どうせ改造するから、何もない方が安くていい」と話す。トヨタ車に日産のエンジンを積むなど、車の改造に工夫を凝らすのも楽しみの一つだ。
 90年代の日本車には、まだバブルの余韻が残っており、ドリフトに向いた後輪駆動の高性能車が数多く生まれた。その後、乗用車の主流が、燃費がよく、車内が広い前輪駆動車に移ったことも、古い車が使われている背景にある。

■プロも誕生

 自動車競技は最高峰のF1をはじめ、改造した市販車のレースや、山道や雪道で競うラリーなど、欧州発祥のものが多い。今月10〜12日には、今年2月に冬季五輪が開かれたソチで、ロシアで初めてのF1のレースが開かれる。
 ただ、極東は、ドイツやイタリアなど、自動車レースが数多く開かれる本場とは遠く離れた場所にある。一方で、街を走る車の8割弱が日本の中古車だ。
 極東に、中古車とともに入ったのが日本の「ドリフト」文化だった。ロシアでは2006年ごろから、極東のクルマ好きが集まって日本の「ドリフト」をまねるようになったという。広場などで競技会が行われるようになり、そこに観客もつき始めた。いまではモスクワなど全国に広がり、ロシア・ドリフト・シリーズ(RDS)として5地区に分かれて行われている。タイヤやオイルなどの部品メーカーがスポンサーとして支援するようになり、プロ選手も生まれている。

■漫画に憧れ

 第一人者のシミニュークさん(37)は「日本のドリフトのDVDが手に入り、華麗な運転に夢中になった」。リ選手(42)は、人気漫画「頭文字(イニシャル)D」に登場する走り屋に憧れた。車は主人公と同じトヨタのスプリンター・トレノ。「いつかは主人公のように走りたい」と練習に励む。
 今大会の最終日には、川畑真人選手ら日本の歴代王者らを招き、初の日ロ対抗戦を開催。6千円程度と高い入場料にも関わらず、3日間で延べ1万人の観客が集まった。熱狂ぶりは日本をしのぐほどだ。もっとも結果は、日本人が4位までを独占して意地を見せた。(ウラジオストク=中川仁樹)

◆キーワード
 <ドリフト> 300メートルほどのコースを、タイヤを滑らせながら走る競技。基本的に2台で走り、車の速度や、進行方向に対する車の角度などを採点する。ドリフトは、山道を走るラリーなどで後輪を滑らせながらカーブを曲がる技術として知られている。日本では、レース場などでドリフトの美しさを比べる競技として発展した。日本では2001年、「D1グランプリ」がスタート。主催するD1コーポレーションによると、いまでは約40カ国で大会が開かれているという。

朝日デジタル:http://www.asahi.com/articles/DA3S11392644.html

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主に1990年代のトヨタや日産、マツダの名車が観客をわかせた=9月21日、ロシア極東アルチョム
主に1990年代のトヨタや日産、マツダの名車が観客をわかせた=9月21日、ロシア極東アルチョム、中川仁樹撮影

(世界発2014)ダイヤ、極寒の地に輝け 冬は零下60度、ロシア極東・サハ  <朝日新聞2014年10月8日>
 14/10 #14-17

 美しい輝きで人々を魅了するダイヤモンド。世界有数の産地であるロシア極東のサハ共和国が、毎年夏の終わりに国内外の観光客や宝飾業者らを集めた「ダイヤモンド週間」を開いている。工夫をこらして世界有数のイベントを目指す背景には、極寒の土地で経済を発展させる難しさがある。
 青や赤のレーザー光線が飛び交う中、白いドレスの女性がずらりとステージに並んだ。胸元や耳には大きなダイヤが輝く。ファッションショーのように一人ずつ中央の通路を歩いて客席の間に立ち、ポーズを決めてダイヤを強調した。
 サハ共和国の首都ヤクーツクで9月初めに開かれたショーでの一コマだ。地元の宝飾会社が提供した総額5億円のダイヤが、地元政財界の有力者や国内外のセレブらを魅了した。参加者はこの後、コンサートや舞踏会を楽しんだ。
 ショーは、2年前に始まった「ダイヤモンド週間」のイベントの一つ。サハ産ダイヤモンドはここ数年、世界の採掘量の3割近くを占めるが、サハの名は世界に浸透しているとは言い難い。サハのコルミリッツィナ企業・観光発展相は「カンヌ映画祭のようなイベントに育て、サハの知名度を高めたい」と語り、期間中に商談が活発に行われるカンヌを引き合いに出す。
 他の見本市や展示会ではまねできないサハの魅力は、採掘から研磨、販売までダイヤに関する全工程を見られることだ。ヤクーツクから西に約800キロ離れたミールヌイのダイヤモンド鉱山にある、直径1200メートルの巨大な露天掘り跡の穴をはじめ、地下の採掘現場など様々な場所へのツアーが用意される。30カ国以上の富豪を集めたダイヤのオークションや、販売業者らの国際会議も開かれた。
 自然や文化を楽しむ仕掛けも整備が進んでいる。ヤクーツクから世界有数の大河レナ川を船で上ると、河岸に巨大な石柱が連なる「レナ石柱自然公園」がある。夏は30度以上、冬はマイナス60度にもなる激しい寒暖の差によって、石灰岩が浸食されてできたという。2012年に世界自然遺産に登録された。
 自然公園とヤクーツクとの間には今年春、約4億円をかけて、宗教施設や昔の家を再現した体験型施設「オルト・ドイド」ができた。名前の由来は、サハの正月にあたる夏至の祭りの儀式を行う場所。「神の世界と死者の世界の間にある世界という意味です」と、地元のアファナス副村長。丘の中腹に円形の祭場が設けられ、実際に儀式も行われているという。
 ヤクーツク市内の宝飾店店員のマトリョーナさん(25)はダイヤモンド週間の最中、「今週の売上高は、いつもの2倍はある」と喜んでいた。期間中の1週間のイベント全体で、約100億円の売り上げがあったという。

■観光で産業底上げ 中国との協力も

 サハ共和国は世界最大の自治体だ。面積は約310万平方キロと、インドよりわずかに狭く、日本の約8倍の大きさを誇る。この広大な土地で生産されるダイヤはロシア産の99%、金は同15%以上を占める。さらに、石炭や天然ガス、石油も採れる「資源大国」だ。
 だが、ミールヌイのニコラエフ副市長は「サハの都市を結ぶ道路や鉄道の整備が足りず、飛行機の料金も高い」と課題を挙げる。
 永久凍土に覆われた大地は、冬にはマイナス60度まで下がり世界で最も寒い地域として知られる。広大なサハ共和国の人口は約95万人。資源以外目立った産業はない。ヤクーツクでも、古い建物が立ち並び、旧型のバスやトラックも目立つ。
 そこで、豊富な資源を売るだけでなく、産業の発展につなげようというのがサハの戦略だ。ダイヤモンド週間は、その柱の一つ。知名度が上がって観光客が増え、ダイヤ加工業者なども進出すれば、インフラ整備の促進や住民の所得増が期待できるというわけだ。
 プーチン政権が近年、極東を重視していることも追い風だ。サハ産業省のブリシイ副大臣は「ロシアがアジア太平洋地域に着目するという新しい状況が生まれている」と期待する。
 サハは経済発展が著しい中国に近い。モスクワまで飛行機で約6時間だが、中国東北部・黒竜江省の大都市ハルビンなら約3時間。国際会議に参加した省幹部は「中国には優れた加工技術がある。サハとの協力関係を進めたい」。
 今年5月、ロシアは中国と30年間、約40兆円という巨額の天然ガス供給契約を結んだ。主な供給源はサハで開発中のガス田となる見通しだ。中国へのパイプラインの起工式は9月にサハで開かれ、プーチン大統領も出席した。プーチン氏は、「パイプラインがつながれば世界の状況に応じて輸出先を変えられる」と話した。
 ウクライナ危機をめぐり、天然ガス販売の主要顧客である欧州との対立が深まる中、プーチン政権のエネルギー戦略において、サハの重要性が増している。(ヤクーツク=中川仁樹)

朝日デジタル:http://www.asahi.com/articles/DA3S11391119.html

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(下)主なダイヤモンド生産国と
生産量
(左)輝くダイヤを身につけた女性たちが、ショーを盛り上げた=ヤクーツク (中央)少数民族の文化を伝える施設も多くある=ヤクーツク
(右)巨大な石柱が連なるレナ石柱自然公園=ロシア・サハ共和国
主なダイヤモンド生産国と生産量輝くダイヤを身につけた女性たちが、ショーを盛り上げた=ヤクーツク少数民族の文化を伝える施設も多くある=ヤクーツク巨大な石柱が連なるレナ石柱自然公園=ロシア・サハ共和国
「ダイヤモンド週間」に合わせて特別に公開された172.5カラットのダイヤモンド原石=ヤクーツク、いずれも中川仁樹撮影
←「ダイヤモンド週間」に合わせて特別に公開された172.5カラットの
ダイヤモンド原石=ヤクーツク

日本とロシアの「音楽の懸け橋」コンサート 報告
 14/09 #14-16

 9月23日(火・祝)高崎市民文化会館で行われた、日本とロシアの「音楽の懸け橋」コンサートに出演致しました。
このコンサートは、群馬交響楽団首席チェロ奏者レオニード・グルチンさんとピアニストのユリヤ・レヴさんが主催し、群馬交響楽団のメンバーや日本人歌手、バラライカ奏者のマキシムさんら20人以上の音楽仲間が出演しました。
  私は、イッポリートフ=イワノフ作曲の「5つの日本の歌」を演奏しました。
  この曲は、日本の和歌(古今和歌集)をロシア語に翻訳し、それに韻をふみ作曲された作品です。全曲でも15分足らずの短い曲ですが、四季折々の自然や日出ずる国日本へのロマンなどが随所に感じられるとても美しい曲です。
  機会があればぜひ皆さまにお聴かせしたい秀逸なロシア・ロマンスです!
ソプラノ歌手 平岡貴子




日本とロシアの「音楽の懸け橋」コンサート日本とロシアの「音楽の懸け橋」コンサート

「2014ワールド・ミュージック・フェスタin日本橋」大盛会に終わる
 14/08 #14-15

 8月30日(土)夕刻、2014ワールド・ミュージック・フェスタin日本橋が行われた。
  これは平素、東日本大震災復興支援コンサートを行っている山口蘭子、平岡貴子、マクシム・クリコフの3氏が意気投合して合同出演したもの。歌の力で東北に愛を!みんなの力で国を超えた友情を!と東京23区東部地域の在住在勤者を中心に参加を呼びかけたところ、会場満杯の約200名の参加が得られた。
  今コンサートでは、実験的試みながら3グループによるロシア民謡・舞踊、ロシアロマンス・日本歌曲・ラテン・タンゴ・シャンソン・ジャズ・オリジナル曲が満喫できた。まさに夢のコラボレーション、使用言語はロシア語・日本語・スペイン語・フランス語・英語で文字通りグローバル。各アーティストのファンが一堂に会してのワールド・ミュージック・フェスタの名にふさわしい異文化交流体験ができた。フィナーレでは会場と舞台が一体となって東日本大震災復興ソング「花は咲く」を合唱。心が一つになった。
  「世界各国の歌を居ながらにして聴ける、贅沢な時間を過ごせて本当楽しかった。もっと多くの人に聴かせたかった。定例開催にしてほしい。震災復興支援は賛同できるこれからも頑張ってもらいたい。」等の感想も多数寄せられ、今後の励みとなった。


 「ワールドミュージック・フェスタ in 日本橋」 速報→

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2014ワールドミュージック・フェスタ in 日本橋2014ワールドミュージック・フェスタ in 日本橋2014ワールドミュージック・フェスタ in 日本橋

シビトウ−ニャ第四回コンサート終わる
 14/06 #14-14

 2014年6月8日(日)シビトウ−ニャ第四回コンサートが中央区八重洲で行われた。今回のテーマは「ロシアの6月〜白夜」。第1部「白夜の6月に…」では、チャイコフスキー、ケナン、ショパン、グラズノフ、オッフェンバック、ブラソフの作品がタイトルに即して紹介された。
 第2部「自然の中で…」ではラフマニノフ、ドップラー、グリンカ、メシアン、アリャビエフの曲目から白夜の頃の自然と鳥のさえずりをモチーフとした曲目が紹介された。
 平岡貴子(ソプラノ)、吉田祐美(フルート)、門田佳子(ピアノ)の各氏の息もピッタリあってファンを飽きさせない構成となっていた。最後に会場と一体となって「翼をください」を合唱。参加者一同、大満足のコンサートであった。
 東日本大震災復興を願って2012年3月に結成されたトリオ「シビトウ−ニャ」の益々の発展を祈念する。

平岡貴子のモスクワ便り→


シビトウ−ニャ第四回コンサート14/06/08

シビトウ−ニャ第四回コンサート14/06/08

(世界発2014)名劇場の陰、抑留の歴史 ウズベキスタン、保存へ改修  <朝日新聞2014年5月30日>
 14/05 #14-13

中央アジアのウズベキスタンで、第2次世界大戦後に日本人抑留者も加わって建てられたバレエ劇場の大改修が進んでいる。国を代表する劇場を後世に残そうとの試みで、今秋にも完了する予定だ。劇場建設の歴史を振り返ると、歴史に埋もれた日本人抑留者の貢献が浮かび上がる。

■「日本人貢献」プレートに
 首都タシケント中心部の官庁街に、ウズベキスタン最高級の「ナボイ劇場」がある。1400人を収容できるれんが造りの重厚な建物で、モスクワのレーニン廟(びょう)の設計で知られる建築家シューセフが手がけた。
 記者が4月中旬に訪れた際、劇場は高さ約2メートルの塀に囲われ、外壁には壁面修復用の足場が組まれていた。傷んだれんがを取り換えたり、正面の扉や窓ガラスを新調したりしているようだった。
 塀の内側で作業着を手洗いしていた男性作業員に声をかけると、男性は「トウキョウ? おお日本人か」と笑顔になり、劇場を指さしながら片言の英語で「(修復は)うまくいっているよ」と胸を張った。男性の近くには、新しいれんがが山積みになっていた。
 1940年代に建てられたナボイ劇場は、日本と深いつながりがある。戦後に旧ソ連の捕虜となり、旧満州からウズベキスタンまで連行された約400人の日本人抑留者が建設に携わったとされる。劇場の壁面には、「数百人の日本国民が劇場の完成に貢献した」と記されたプレートがはめ込まれている。
 タシケント市内の金融業界で働く男性(25)は「劇場建設で日本人抑留者が貢献したという話は祖母から母親へ、母親から僕へと伝わった」と話した。66年の大地震で市内の多くの建物が倒壊したが、劇場は被災者の避難所になるほど頑丈だった。この時、日本人抑留者たちの仕事ぶりが改めて注目されたという。
 国営観光会社ウズベクツーリズムのファルウ・リザエフ総裁は「ナボイ劇場の今回の修復は、20〜30年に一度の規模だ。劇場を後世に残したい」と話す。改修は今秋にも終わり、オペラやバレエなどの上演を再開する予定だ。

■絶望に耐え2年半「日劇に匹敵」
 ナボイ劇場の建設に携わった元抑留者の1人と東京で会うことができた。世田谷区在住の不動産仲介業、大塚武さん(88)だ。「れんが焼き数百個のノルマを達成できず、ソ連人の監督に『ダバイ、ダバイ』(ロシア語で『やれ、やれ』の意味)とせかされた」と当時を振り返る。
 45年の終戦時、現在の中国遼寧省にあった旧日本陸軍の鞍山飛行場第四航空路部の通信兵だった。「内地に帰れるぞ」。期待と裏腹に、大塚さんら日本兵を乗せた貨物列車は北のシベリアへ、そして西へと向かった。一人でも多く詰め込むため、貨車では数十人が頭と足を互い違いになるようにして寝た。シラミや南京虫に襲われて寝つけない。バイカル湖が見えた時、しばらくは帰郷できないと悟ったという。
 出発から約40日後、タシケントで降ろされ、鉄条網に囲われた第8ラーゲリ(収容所)でれんが製造を命じられた。劇場の壁面になるれんがだった。
 数カ月後、劇場建設を担う第4ラーゲリに移動。配電担当となり、劇場の1〜3階に電線を敷いた。電線に頭が触れて感電し、半日ほど意識不明になったこともある。地元の医師が汗びっしょりになり、心臓マッサージをしてくれて一命を取り留めた。建設中の事故で死亡した仲間もいた。
 いつ帰れるか分からない絶望感と劣悪な労働環境にありながら、仲間とは「仕事をしっかりやろう」と声を掛け合った。日本人の働きぶりは評判で、地元民から魚の干物やウオツカなどの差し入れのほか、結婚の申し出まであったという。
 ソ連側は一人ひとりの食事量をノルマ達成度で増減したが、抑留者たちで分け直して「平等」を貫いた。抑留者の食事の総量は決まっている。奪い合えば仲たがいが起きるだけだと、皆で決めた。
 大きなシャンデリア、壁面にはウズベキスタン特有の彫刻。完成間近の劇場を見上げ、大塚さんは「有楽町の日劇に匹敵するな」と思ったという。
 2年半に及ぶ抑留生活を終えて48年夏、京都府の舞鶴港に帰国した。「若い頃に見聞を広げることができた。強制労働とはいえ、今も地元民に大切にされる劇場建設にも携われた。抑留者の中では幸せな部類だったのではないか」
 ウズベキスタン人の同僚がくれた手作りのたばこケースを、今も大切にしている。ナボイ劇場で見たバレエが帰還後も忘れられず、娘3人をバレエ教室に通わせた。異国での体験は、その後の大塚さんの生活に大きな影響を与えた。

■推定900人が死亡 建設・炭鉱・農業に従事
 タシケント市内に日本人抑留者79人が眠るヤッカサライ墓地がある。ウズベキスタン国内にある13カ所の日本人墓地の一つだ。管理人のラーノ・アリプハジェイェバさん(60)は「多くの日本人観光客が訪れる。私はこの国への日本人の貢献を知り、尊敬の気持ちを込めて仕事をしている」と話した。
 第2次大戦末期にソ連が日ソ中立条約を破棄して旧満州などに侵攻。日本兵らをシベリアなどに連行して過酷な労働を強いた。日本の厚生労働省の社会・援護局調査資料室によると、旧ソ連での抑留者は推計で約56万1千人、抑留中の死亡者は約5万3千人に上る。
 抑留者のうち約2万3千人がウズベキスタン(91年独立)に連行され、劇場建設のほか運河やダム、水力発電所の建設以外に、炭鉱や農業などにも従事した。推定約900人が栄養失調や病気などで死亡。日本の外務省によると、ウズベキスタンは気候が比較的温暖なことなどから、抑留中の死亡率はシベリアの半分以下で約4%だったという。(タシケント=金成隆一)

朝日デジタル:http://www.asahi.com/articles/DA3S11163006.html

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写真:大改修が進むナボイ劇場=タシケント、金成隆一撮影
タシケント
大改修が進むナボイ劇場(タシケント)

(海外通信)@モスクワ シューホフのラジオ塔 双曲面が続くモダンタワー   <朝日新聞2014年5月28日(夕刊)>
 14/05 #14-12

 ロシア・モスクワ南部の労働者住宅街に不思議な塔が立っている。天からつるされた魚籠(びく)のような網状のタワーである。東京タワーにせよパリのエッフェル塔にせよ、大きな骨と小さな骨から出来ている普通のタワーは、下から見上げると鉄骨が重なって見えて鉄のかたまりだが、小骨のみの双曲面の連続からなるこのタワーは、視線がふさがれることなく、空気が柱状にくりぬかれて立っているという趣なのだ。
 これは1922年、ロシア革命直後の混乱と疲弊のただ中で、技術者ウラジーミル・シューホフ(1853〜1939)によって設計されたラジオ塔である。革命期のソ連ではあらゆるジャンルで前衛芸術が隆盛したが、この超モダンなタワーは、その前衛世代に大きな影響を与えた。資材不足で高さは150メートルにとどまったが、原設計では、高さでエッフェル塔をしのぎながら重量はその4分の1という画期的な設計だった。
 このタワーが現在取り壊しの危機に瀕(ひん)している。ラジオ塔としての機能を終えた今、無用の長物というわけだ。
 都心にあまり遠くないこの辺りでは高い建物には規制がある。しかし、既存のものがあれば同じ高さで建てられるという規制上の抜け道にディベロッパーが目を付けたともいわれ、国家放送委員会は今年2月に取り壊しに同意した。技術・デザイン・景観におけるタワーの意義から反対の声が瞬く間に世界中から寄せられ、3月半ばにはプーチン大統領に保存アピールの公開状が寄せられた。日本からも第一線の建築家や構造家たちが名を連ねている。
 折からロシアはウクライナ・クリミア問題で揺れているが、現地では一般メディアでも連日報じられているという。単なる技術工作物と考えていた当局は、思わぬ幅広い抗議に包囲され困惑している。現在基本方向は変わらないながら、膠着(こうちゃく)状態までには持ち込まれている。今後の推移に注目したい。

 (八束はじめ 建築家・建築批評家)

朝日デジタル:http://www.asahi.com/articles/DA3S11160540.html

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(左)内部から見たラジオ塔/(右)モスクワ市街にたつシューホフのラジオ塔=RichardPare氏撮影
若田光一さんを追いかけて カザフスタン
若田光一さんを追いかけて

若田光一さんを追いかけて
 14/05 #14-11

 日本人初の国際宇宙ステーション船長をつとめた若田光一さんが地球に帰ってくる------。宇宙船の着陸地点はカザフスタン。どんなところなのでしょうか? 若田さんを追いかけて2人の記者が旅立ちました。朝日新聞(夕刊)14年05年17日

朝日デジタル:http://www.t.asahi.com/eqt3

若田光一さんを追いかけて カザフスタン
若田光一さんを追いかけて

「ユーラシアビュー EURASIA View 2014 SPRING vol.93」 に、ユリア・ピヒティナさんの記事が掲載されました。
 14/05 #14-10

 都連でおなじみの歌手ユリア・ピヒティナさん筆による大変興味ぶかい記事が紹介されている。作家ブルガーコフのファンは日本に多いが、ユリアさんはその演劇「巨匠とマルガリータ」にも出演していた。ぜひご一読を!
 さらに、ユリアさんが毎週木・金にロシア歌曲の紹介活動を行っているレストラン「ミンスクの台所」(東京・港区)支配人ヴィクトリアさん一押しのドラニキ(ジャガイモ料理)も紹介されている。ここは都連会員の多くが常連客となっている名店である。バラライカ奏者マクシム・クリコフ氏の名伴奏も人気のもとになっている。
 ユーラシアビュー誌発行はイスクラ産業梶B編集者は「こうした特集記事を通して日本とユーラシア諸国の人々の文化交流、友好、さらには平和貢献につながれば幸いです。未来志向で紙面づくりをしていきたい。」と語った。

(左)ユーラシアビュー表紙、(中央)ユリアさん記事、(右)ドラニキ





ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演
 14/05 #14-09

5月3日(土・祝)11:40〜12:00 東京国際フォーラム地上広場キオスクコンサートにてラフォルジュルネ2014 オープンプログラムが行われ、そのトップバッターにロシア民族音楽アンサンブルGarmoshka「ガルモーシカ」が素晴らしいライブを行った。
ガルモーシカ主宰者はマクシム・クリコフ氏(都連会員)。氏はやや緊張気味ながらも流暢な日本語で聴衆に挨拶をして、グループ諸氏を紹介。抜群の歌唱力を誇るユリア・ピヒティナさん(都連でコンサートを行った)が次々に日本人なじみのロシア歌曲を歌いあげ、名伴奏のなか、民族舞踊も交えたロシア文化紹介のプログラムは大成功を収めた。
レストラン「ミンスクの台所」支配人ビクトリアさんも応援に駆け付け、「ブラボー」連発。聴衆300人も手拍子よろしく、観客参加型のイベントをみんなで創り上げてくれた。
まさに「ハラショー」(素晴らしい)だ。








ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演14/05/03
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演14/05/03
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演14/05/03ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演14/05/03





ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演14/05/03ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014 オープンプログラムに「ガルモーシカ」Garmoshkaが出演14/05/03
キャパ、メーデー取材中60年前      朝日新聞(夕刊)14/05/02
 14/05 #14-08

60年前に東京の明治神宮外苑であったメーデーの集会を、米国の写真家ロバート・キャパが取材していた。その時にキャパを写した写真が、神奈川県鎌倉市の個人宅に残されていた。日本で取材中のキャパを写した写真は珍しく、軽装でカメラを手にしている。
撮影されたのは1954年5月1日。映画の撮影監督を長く務め、2012年に77歳で死去した奥村祐治さんが撮った。妻の三重子さん(67)によると、祐治さんは当時、東京写真短大の学生。会場に居合わせた、あこがれのキャパに「アー・ユー・キャパ?」と尋ね、本人の了承を得て撮影したという。
当時、皇居での取材中にキャパに会った日本写真家協会の田沼武能会長は「トレードマークのくわえたばこが懐かしい。人々の表情を興味深そうに写していた」と話す。
キャパは約20日間にわたり日本国内で取材したが、この日が滞在最終日。約3週間後、仏領インドシナ(現在のベトナム)で地雷に触れ、命を落とした。祐治さんは「この写真が日本で写された最後の1枚かもしれない」と大切にしていたという。
三重子さんは東京・恵比寿の都写真美術館で開催中の写真展「101年目のロバート・キャパ」(朝日新聞社主催)の鑑賞をきっかけに、公表を決めたという。写真展は11日まで。(鬼室黎)

朝日新聞デジタル:http://www.asahi.com/articles/ASG514FKLG51UKJH004.html

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キャパ、メーデー取材中60年前<朝日新聞(夕刊)14/05/02>
チェルノブイリ28周年救援キャンペーン 講演会「チェルノブイリと福島」 都連広報部参加報告
 14/04 #14-07

 2014年4月24日文京シビック小ホールにて標記講演会が行われた。会場には、フォトジャーナリスト、原発問題研究者、チェルノブイリ原発事故研究者など300名が参集した。
 恒例となった本行事に、今回はウクライナからシメオカヤ・インナさんが駆けてくれた。キエフで1981年生まれたインナさんは、4歳でチェルノブイリ原発事故により被曝。13歳で甲状腺ガン手術を受ける。結婚後、妊娠がわかったとき出産をあきらめるよう医師の所見があったが、長女を2008年出産。さらに2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発事故に衝撃を受けて「未来の福島こども基金」を通じて日本の人々へのメッセージを届けるべく来日された。
 続いて、フォトジャーナリストの広河隆一氏による3年ぶりのチェルノブイリ取材報告が行われた。現地の生々しい被害の実相が写真とともに語られた。チェルノブイリ原発事故後に生まれた子どもたちに甲状腺ガンなどを発病しているレポートが行われた。既に福島の子どもたちにも甲状腺ガン発症が見受けられ、現時点に於いても汚染地域から移住もできない人々がいることも座視できない。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という日本の国民性は本当に改めなければならない。なぜなら、日本は世界唯一の原子爆弾を落とされた国なのだから。
(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)





チェルノブイリ28周年救援キャンペーン講演会「チェルノブイリと福島」(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)14/04/24
チェルノブイリ28周年救援キャンペーン講演会「チェルノブイリと福島」(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)14/04/24








右2枚:広河隆一写真展「チェルノブイリと福島」(文京シビック1F展示室)14/04/12-16
チェルノブイリ28周年救援キャンペーン講演会「チェルノブイリと福島」(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)14/04/24
チェルノブイリ28周年救援キャンペーン講演会「チェルノブイリと福島」(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)14/04/24
チェルノブイリ28周年救援キャンペーン講演会「チェルノブイリと福島」(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)14/04/24
チェルノブイリ28周年救援キャンペーン講演会「チェルノブイリと福島」(主催:チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金)14/04/24

 
 




チェルノブイリから28年、ベラルーシの経験とドイツの市民活動    14.4.15-19
「今をみつめ、これからを語る チェルノブイリからドイツ、そして福島へつなげる声」(国際環境NGO FoE Japan主催)イベント参加報告
 14/04 #14-06

 チェルノブイリ原発事故から28年、福島第一原発事故から3年目の今年4月、ドイツとベラルーシから、チェルノブイリの子どもたちの支援や環境問題、エネルギー問題に携わる市民12 名が来日。13日〜20日まで、広島、東京、福島を訪問し震災・原発事故を経験した日本の現状の視察とともに、経験共有・交流活動が行われた。19日東京では「今をみつめ、これからを語る チェルノブイリからドイツ、そして福島へつなげる声」と題する催しが行われ協会都連広報部が取材した。(会場:東京・港区)
 第1部では「ベラルーシと福島で起きたこと、今起きていること」をテーマに、チェルノブイリ原発事故を経験したリュドミラ・マルシュケヴィッチ(ベラルーシ)さん、マリア・ブラトコフスカヤ(同)さんから当時の経験とその後の支援活動、本国の子どもたちの現状報告などがあった。他のメンバーからも療養体験や市民活動などの解説があった。
 ドイツ側参加者からは「市民力」「政治的(法律)の枠組み」「経済のイノベーション(原発にかわるもの)」を柱に100パーセント再生可能エネルギーを目指したエネルギーシフトに関する報告があった。
 第2部、3部はパネルトーク形式で「今をみつめる」「日独ベラルーシ若者の視点」とそれぞれ題し、若者たちの視点から支援活動の内容や思い、これからのエネルギー政策についてをテーマに活発な討論がかわされた。
 こうした中で、原発による被害者を癒し、過ちを繰り返さないよう活動の輪を広げるために、この問題について「話し続ける」「議論し続ける」「市民が協力しあう」「決して目をそむけない」「あきらめない」こと、ひとり一人が国のかけはしとなっていく活動を続けることを発言に立った皆が訴えた。
 進行をつとめた鎌仲ひとみ氏(映像作家)は、豊富な現場取材経験から現場の不遇な状況を訴えると同時に、議論の後にアクションを起こすことを提起し満場の聴衆の共感を得た。
 鎌仲ひとみ氏の主な作品には、2003年ドキュメンタリー映画「ヒバクシャー世界の終わりに」、2006年「六ヶ所村ラプソディー」、2010年「ミツバチの羽音と地球の回転」、2012年DVD「内部被ばくを生き抜く」、2014年現在、「小さき声のカノン−選択する人々」を撮影中、等々があり、いずれも好評を博している。
 プログラム最後にはマリアさんによるベラルーシ民謡の発表もありこの催しに花を添え、参加者のおしみない拍手を浴びた。
「今をみつめ、これからを語る チェルノブイリからドイツ、そして福島へつなげる声」(国際環境NGO FoE Japan主催)
「今をみつめ、これからを語る チェルノブイリからドイツ、そして福島へつなげる声」(国際環境NGO FoE Japan主催)
「今をみつめ、これからを語る チェルノブイリからドイツ、そして福島へつなげる声」(国際環境NGO FoE Japan主催)

映像文化研究会から近況報告    14/03

 14/03#14-05

「101年目のロバート・キャパ 誰もがボブに憧れた」  2014年3月22日〜 5月11日 

20世紀を代表する報道写真家のひとりとして、「ロバート・キャパ」(本名アンドレ・フリードマン)ははずせない。時代を駆けめぐった彼は、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、第一次インドシナ戦争と激戦地を取材先に選び、世の人々に多くの真実を送り届けた。そうしたなか、第一次インドシナ戦争の撮影中地雷に触れ、40年の生涯を閉じた。
ちなみに「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、実際には、親しくしていたゲルダ・タローとの共同作業によるもの。
現在、生誕101年目を記念して、東京都写真美術館(東京・渋谷区)で標記写真展が開催されている。はじめて彼の作品を見る人は、時代を映し出したその魅力にとりつかれる。その一方、こうした悲劇的な写真を撮らなければならない日が来なくなることを願わずにはいられない。
https://syabi.com/contents/exhibition/index-2149.html
「101年目のロバート・キャパ 誰もがボブに憧れた」2014年3月22日〜 5月11日

ロシア写真展「多文化・多民族」  2014年3月28日〜4月3日 

東京・港区六本木の富士フィルムフォトサロンで、ロシア写真展「多文化・他民族」(在日ロシア大使館主催)が開かれた。RIA通信社厳選の作品群だけあって、国の歴史や人々の営みを感じさせるものばかりであった。展示品の各キャプションからは、地域の特色が伝わり、熱心に見比べる人の姿も多く見られた。来場者の多くは鮮やかな民族衣装や人々の笑顔と写真の表現力に魅せられると同時に、文字通り多文化・他民族国家ロシアへの関心を一層深めたことであろう。
こうした一つ一つの蓄積が文化交流の糸口となることは論をまたない。

ロシア写真展「多文化・多民族」2014年3月28日〜4月3日
ロシア写真展「多文化・多民族」2014年3月28日〜4月3日

陸軍登戸研究所について

登戸研究所(正式名称、第九陸軍技術研究所)とは、戦前、旧日本陸軍が秘密戦兵器・資材を研究・開発するために開設した研究所。外部に秘匿のため「登戸研究所」とよばれていた。
その研究・開発は、殺人光線、毒物・爆薬の開発、風船爆弾のほか、中野学校(スパイ養成所)と手を組んでの偽札製造など、多岐にわたっていた。
登研は、アジア・太平洋戦争の秘密戦中核を担い、軍から重視された研究所であったが、終戦とともに閉鎖。1950年代に登研跡地の一部を明治大学が購入し、現在の明治大学生田キャンパスの敷地に収まっている。
敗戦の日、証拠隠滅命令が下され、焼き尽くし、破壊し、あるいは湖や海に沈めたが、主たる研究成果と技術者は、終戦直後、アメリカに引き渡されることを条件に、東京裁判でも審判対象とされることはなかった。
ここで働いていた人たちにも、強い守秘義務はあったが、1980年代ころより、口にするようになり、本に書いたりし、その全貌が明らかになってきた。
そして、書籍「陸軍登戸研究所の真実」(著:伴繁雄)と、この本をきっかけに、当時を知る生存者が少ない中、証言者を訪ね歩いて製作された映画「陸軍登戸研究所」(監督、楠山忠之)が話題を呼んでいる。
現在、研究所跡地には「明治大学平和教育登戸研究所資料館」が存在する。もちろん「登戸研究所遺跡」の保存を訴える人々もいる。
戦後69年が経ち、戦争を知らない世代が大半を占め、その痛みも風化しつつあるかに見受けられる。こうしたなかで、歴史の事実を直視するとともに、過去の隠された真実を葬ってはならいことを私たちはこの映画から学びたい。
映画会当日は、監督、楠山忠之氏の舞台挨拶ももたれ、氏は「一人でも多くの人にこの映画を観ていただきたい」と呼びかけた。こうして観衆一同が、現代史に光りをあてることの重みを再確認できた日となった。

http://www.rikugun-noborito.com/

映画「陸軍登戸研究所」監督:楠山忠之氏

アンサンブルテラのてらこんさあと4 名曲「マザーグース」を歌う 鑑賞報告    14/02/11 14:00〜16:30

 14/02 #14-04

 てらこんさあと4が稲城市立i(あい)プラザホールで開かれた。“TERRA”は大地・宇宙・大きな存在を表し、音楽家・寺島尚彦氏の“てら”でもある。
アンサンブルテラは、12名の男声コーラスグループ。当日は、「谷川の世界」「テラによるマザーグースの世界」「アンサンブルてらの世界」の3部構成により、谷川俊太郎作詩、寺島尚彦作曲による名曲の数々を、江川真理子編曲・ピアノ、橘光一・電子オルガン、浜川慎司・フルートの伴奏によって歌い上げた。
とりわけ、「さとうきび畑」ほか4曲の寺島尚彦作詩・作曲作品も披露された第3部では、満場の熱い喝采を浴びた。
テラのメンバーには合唱団白樺の関係者の顔もあり、日本ユーラシア協会都連ともつながりのあるカリーヌシカのメンバーとも協力関係にある。協会都連としては、言うまでもなく、アンサンブルテラと今後とも連携していきたい。



アンサンブルテラのてらこんさあと4 名曲「マザーグース」を歌う14/02/11
朝日新聞 「ウオツカの飲み過ぎ短命のもと」 ロシアの15万人を英の大学など調査      14/02/02
 14/02 #14-03

ウオツカの飲み過ぎがロシア人男性の早死にの原因になっていることが、約15万人の調査で裏付けられた。英オックスフォード大やロシアがん研究センターなどが1月31日、英医学誌ランセットに発表した。
 ロシア3都市の計15万人を約10年間追跡したところ、ウオツカを週3本(1本500ミリリットル)以上飲む男性の場合、既往歴がなくても35〜54歳で死亡する割合が35%となり、週1本未満の場合の16%とは大きな差が出た。
 8割以上の死因が、肝臓やのどのがんなど飲酒と強い関連を持つ病気か、自殺や事故、暴力など。ウオツカを週3本以上飲む男性の9割は喫煙者でもあり、飲酒と喫煙が寿命を縮めているらしい。研究チームでは「歴史的にみて、ロシア人の死亡率はウオツカの規制とともに変動してきたという関連性が裏付けられた」と話している。
 世界保健機関(WHO)によると、ロシア人男性の平均寿命は63歳で、開発途上国並みの水準。15〜54歳での男性死亡率が25%に上り、1割未満の英国とは差がある。15〜54歳の男怪死亡率は、ウオツカの生産・販売が規制された1985年から数年間下がったが、ソ連崩壊(91年)の前後に急上昇。2000年代後半から再び下がっているという。
(ワシントン=行方史郎)     儕DF 


「ジョセフ・クーデルカ」(1938年チェコスロヴァキア生まれ)の回顧展

 14/01 #14-02

ユーラシア・フォトクラブから活動報告

今日世界で最も注目される写真家の一人「ジョセフ・クーデルカ」(1938年チェコスロヴァキア生まれ)の回顧展が国立近代美術館(東京・千代田区)で開催された(13年11月6日〜14年1月13日まで)。アジア初である。
一躍彼の名前が知られるようになったのは、1968年ソ連軍のプラハ侵攻(プラハの春)を撮影した記録を西側に発表したことによる。その写真は匿名ではあったが、それを契機に1970年祖国を離れている。言うまでもなく、命をかけた記録から伺える、真実とそこからみえる市民の怒り、その迫力には息をのむ。この作品群はまさに歴史遺産といえよう。
写真集「侵攻」(1968年)はオススメの一品である。
1978年には優れた写真家に贈られるナダール賞、またアンリ・カルティエ= ブレッソン賞(1991年)、ハッセルブラッド国際写真賞(1992年)など多くの写真賞を受賞しているほか、フランス芸術文化勲章(1992年シェヴァリエ、2002年オフィシエ)、チェコ共和国功労章(2002年)を授与されている。
本展では、放浪の民の生と死を見つめ続けた「ジプシーズ」(1962-1970年)、亡命後にヨーロッパ各地で撮影された「エグザイルズ」(1970-1994年)、パノラマ・フォーマットの作品による「カオス」(1986-2012年)など、代表作約300点も並んだ。
わがフォトクラブ員も大いに触発された。
ジョセフ・クーデルカ「侵攻」から チェコスロバキア、プラハ(1968年)
(C)Josef Koudelka/Magnum Photos


「ジョセフ・クーデルカ」回顧展131106-140113

朝日新聞(いいね!世界イチ?)  美人大国、歴史あり

 14/01 #14-01

■89.5%―ウクライナ女性「美しい」の割合、キエフの中心街で女性19人に質問
世界一、美女が多い国はどこか。誰もが一度は考えたことがあるのでは? 「東欧の女性に違いない」。「南米こそ最も美しい」。熱く語る2人の記者がウクライナとコロンビアに旅に出た。

■モデル発掘  結婚仲介盛ん

歴史の風薫るウクライナの首都キエフは、美女がよく似合う。亜麻色の髪に透き通った青い瞳、すらりと伸びた手足。通りやカフェにいる女性たちでアイドルグループができそうだ。
私の勝手な思い込みではない。香港の大手旅行情報サイトの調査でも、キエフは世界で最も美女が多い街に選ばれた。他の調査でもウクライナは常に上位だ。
彼女たちはどう思っているのか。キエフ中心部で女子学生シュムスカヤさん(17)に「ウクライナ人は世界で一番美しい?」と聞くと「もちろん!」。19人中、9割が同じ答え。気持ちいいほどの自信だ。
美人の秘密は地の食べ物か。いやいや、ウクライナ料理は脂っこい。特に豚の脂身の塩漬け「サロ」は高カロリー。なのに、スリムな人が多いのは不思議だ。
餅は餅屋。地元モデル事務所「リニア12」を訪ねると、イタリアの大手事務所のオーディション中だった。身長180センチ前後、プロポーション抜群の女性たちが水着で写真撮影。「ウクライナ女性は力強い顔立ちが魅力。グラビアでもショーでも映える。世界有数のモデル発掘地帯だ」。イタリア人の担当者、ペラツォーリさんは絶賛した。
「トルコなどの侵略による混血が独特の美を生んだ」とリニア12のマニュク社長。欧州とアジアの接点で、様々な民族から侵略を受けた。スラブ諸民族、ペルシャ系、モンゴル系、トルコ系などが混血。黒髪に碧眼(へきがん)の独特の美しさには、歴史の悲劇が織り込まれている。
だが、魅力は見た目だけではない。隣国ロシアで通算5年暮らした私の実感から言うと、ロシアもかなりの美人大国だが「つんけん」した感じの女性も目立つ。一方、ウクライナ女性は皆おっとりして愛想が良い印象を受けた。「温暖な気候と肥沃(ひよく)な大地、人口密度の低さから性格は攻撃性が低く受動的。家庭を重視する傾向が強い」という地元調査機関の分析もある。
結婚相手として海外からも引く手あまた。結婚仲介会社「インター・デーティング・クラブ」が紹介した年百数十組のうち、約3割が結婚するという。同国は1991年の独立後も経済が停滞。国民総所得は1人3千ドル強と東欧でも最低水準。政情も安定しない。同社幹部は言う。「女性にとって西欧の生活水準の高さは魅力なのです」

儕DF / 剪ゥ日デジタル http://www.asahi.com/articles/DA2S10902426.html 

(左)大学生のマリヤさん(20)。「ウクライナの女性の魅力は外見よりも親しみやすい性格です」=キエフ、西村大輔撮影
(真中)昨年11月のコンテストでミス・コロンビアの栄冠に輝いたパウリーナ・ベガさん(20)=ボゴタ、岩田誠司撮影
美人大国、歴史あり
美人大国、歴史あり
世界一、美女が多い国はどこか
■記者のいいね!ポイント

「美しさ」の基準は人それぞれなのは言うまでもない。それでも世界で最も美女が多いと言われる国に足を踏み入れてみたかった。
取材で見えてきたことがある。ウクライナとコロンビアの女性の共通点は、外見もさることながら、その親しみやすい性格。話しかければ誰もがにこやかに、丁寧に応じてくれる。謙虚で人なつっこい微笑は、整った目鼻よりもはるかに心をくすぐる。両国の女性たちは「心・技・体」がそろった美人大国の横綱の貫禄が備わっていたように思う。
かくいう我々、日本男児はどうか。次は「イケメン大国」を探ってみたい。

(左)ウクライナ美女に囲まれて
(右)女性刑務所のミスコン入賞者に挟まれて
 






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