抑留問題資料

抑留問題資料/シベリア抑留問題

シベリア抑留問題


シベリア抑留問題    |< << >> >|

第2次世界大戦で日本が無条件降伏した際、旧ソ連に捕虜として移送され、シベリアなどで長期間労働を強制されたこと。
中国東北部などに動員された日本軍兵士・軍属がほとんどで、ソ連はその数を54万6086人と発表している。
捕虜はソ連国内で約2000地点の捕虜収容所に分散抑留され、極寒と劣悪な条件のもとで労働を強制された。
旧ソ連以外の旧日本軍捕虜がほぼ1946年に帰還したのに対し、ソ連抑留者の帰還が概ね完了したのは1958年。
多数の日本人を長期間抑留し労働させたことは、国際法に明白に反するものである。
米、英、仏、旧西独などは捕虜になった自国民に補償をしている。
日本政府は、米国などでの日本軍捕虜と差別して、シベリア抑留者には補償せず、1956年の日ソ共同宣言ではソ連に対する一切の請求権を放棄。
シベリア抑留者は日本政府に抑留中の労働賃金等の補償等を要求している。
シベリア抑留問題と日本ユーラシア協会

 日ソ協会創立の基礎となった日中日ソ国交回復運動は未帰還抑留者の送還をも課題としていた。けれども、その後ソ連崩壊までは、シベリア抑留問題を問題として取り上げることは少なかった。したがって、それは、日本ユーラシア協会が新たに取り組む問題となった。
 協会に抑留問題委員会が設けられ、全国企画としては1993年2月に行われた政府関係官庁への要請、(別褐資料)1994年の抑留問題シンポジウム、1995年8月に実現するウラジオストークでの鎮魂・平和・友好の碑建設運動、1997年のシベリア抑留展(東京・文京シビック展示場)などの企画が実施された。日ロフォーラムのロシアでの開催地における死亡者埋葬地への墓参、沿海地方への墓参団派遣、橋本首相への抑留者墓地墓参要請などがこれに加わる。
 ウラジオストークでの鎮魂・平和・友好の碑(右、写真)建設は、1993年3月の第一回日ロフォーラムでの問題提起に始まり、現地に赴いての日ロ協会沿海地方支部との協議、市当局との交渉、退役軍人会との会談、碑建設敷地の確定を含む実施細目打ち合わせ(藤田勇・高橋大造代表)、建設募金活動を経て進められ、1995年8月15日、チーハヤ湾を望む高台に建立された「平和よ永遠に」を表に刻む碑の前で、日本ユーラシア協会代表団31名とロ日協会ウラジオストーク支部代表団・現地市民300名の参加のもとに盛大に除幕式が行われた。両代表(日ロ協会沿海地方支部事務局長ブローヒン、日本ユーラシア協会会長藤田勇)の挨拶、高橋大造の献歌朗詠、藤下悌彦とロ日協会側シチコフの発言があり、ロシアの少女アントーノワの「帰ってこない人のことを、何百年経っても忘れないで!」に始まる鎮魂歌の朗読、ピオネール少女たちによる反戦歌「鶴」の合唱が感動を呼んだ。その後、工藤茂道提供の桜の種の植え込み、ロシア側関係機関・団体への日本ユーラシア協会の記念品贈呈、協会抑留問題委員長栗原茂の閉会の辞で式典終了後、会場内で懇親パーティが行われた。戦争・抑留の悲劇を断ち、平和と友好を誓い合うこの除幕式の模様はロシアのテレビやラジオで報道された。
 以来、ウラジオストークの「鎮魂・平和・友好の碑」には日本ユーラシア協会代表団が2000年、2005年と訪れ、ロ日協会現地支部や平和団体「沿海州平和基金」(V.ブーラヤ会長)等と記念行事を開催し、州・市の行政機関、日本領事館代表や現地駐在日本商社代表、地元市民約300余名の参加を得て、テレビ・ラジオ・各種新聞メディアで大きく取り上げられてきた。
 北東アジアの平和を保障するこうした取り組みは人類の未来への遺産として、今後とも引き継がれていくであろう。


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鎮魂と平和、友好の碑






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