抑留問題資料|第二次世界大戦と捕虜問題

抑留問題資料/第二次世界大戦と捕虜問題



第二次世界大戦と捕虜問題 2/5   |< << >> >|
1 捕虜・被抑留者という言葉

「捕虜」(prisoner of war, les prisonniersde guerre, Kriegsgefangene, voennyeplennye)とは、1945年当時有効であった1929年ジュネーヴ条約(「捕虜の待遇に関する条約」―正文は
フランス語)1条によれば、@1907年ヘーグ条約付属規則:「陸戦の法規慣例に関する規則」1-3条に掲げるすべての者、すなわち、交戦当事国の軍隊およびそれに準ずる民兵隊・義勇兵
などに属する者、被占領地域の人民で交戦者と認められる者(交戦当事国の兵力は戦闘員および非戦闘員を含むものとする)で「敵に捕らえられた者」、A交戦当事国の兵力に属し、海
戦・空戦において「敵に捕らえられた者」すべて、をさす。1949年の新ジュネーヴ条約第4条は、「敵の権力内に陥った者」で捕虜とされる者の範囲を詳細に規定している。詳しくはそれをみてい
ただくことにして、これらを一言で要約すると、捕虜とは、軍人およびそれに準じる者で、戦闘員・非戦闘員を含めて「兵力」(lesforcesarmees)を構成するすべてをさし、国際法上「捕虜」とし
て保護される権利をもつ者、といってよい。(注1)この点は旧ソ連の1941年の捕虜規定でもほぼ同様である。捕虜は、特定の場所または柵をめぐらせた収容所に抑留することができる。これが
抑留(internment)である。
これにたいして、交戦当事国の一方がその領土またはその軍隊の支配する領域においてその権力下におき、抑留措置をとった交戦相手国の文民(civilianpersons)または抑留権力国国民
ではないその他の文民は、「被抑留者(internee)」と呼ばれる。捕虜ではない。これについては、第二次世界大戦の経験に鑑み、1949年に「戦時における文民の保護に関するジュネーブ条
約」ができたが、それ以前は国際法の取り扱いが極めて不十分であった。ここでは、捕虜、被抑留者という言葉を区別して用いることにする。
わが国では、ソ連抑留の捕虜について「抑留者」(抑留されていた者)という言葉が広く用いられている場合が多いと思われるが、ソ連抑留者については捕虜という概念が当てはまらないという
考え方による場合もあろう。これについては、次のような事情がある。
伝統的捕虜概念は、1929年ジュネーヴ条約第1条が引照するヘーグ条約1〜3条にみられるように、「交戦者」であることを前提としている。これは、第二次世界大戦においても、交戦当事
国の間で戦闘行為が行われている機関の捕虜についてはそのまま妥当した。ところが、周知のように、ドイツ・日本は連合国にたいして「無条件降伏」をし、これによってドイツ・日本の軍事力
は完全に武装解除されたことになった。そこで、戦争状態または交戦状態終了後(終了を講和条約成立時点とみれば終了していないことになるが、この点は後に述べる)武装解除された諸
部隊をその権力下におくこととなった連合国は、当初、この「新しい状況」のもとで、これら諸部隊につき、ジュネーヴ条約に定める捕虜の権利保障諸規定を適用することが困難となる。そこ
で、赤十字国際委員会もアメリカ政府も、武装解除によって連合国の権力下におかれた者に「捕虜たるの地位」、「捕虜と同様の地位」を認める、あるいは、これを捕虜として扱う立場をうち
だすことになるのである(1946.3.30米軍欧州司令部見解、1946.9.6隻従事国際委員会の連合国あて書簡、これにたいする1947.5.17米国務省回答等)。(注2)ソ連に抑留された日本人の
本国送還にかんする最初の国際協定である1946年12月19日の「ソ連地区引揚米ソ協定」が対象としているのは、そうした経緯を表現している。こうした国際関係の現実からみて、ソ連抑留
の旧日本軍人についても捕虜であることを否定するのは難しい。また、これを否定することは、国際法上、捕虜として待遇される権利、これに基づく本国政府にたいする請求権も否認する立
場に通じることになる。なお、これはソ連領連行・長期抑留の当・不当の問題とは別である。

2 第二次世界大戦における捕虜―その一側面

第二次世界大戦では、史上比類のない規模で人間が殺戮された。だが同時に、ロシアの軍事史家ガリツキーによると、交戦諸国によって捕獲され、捕虜としての運命を担った者も約3500
万人という膨大な数にのぼる。(注3)ここには被抑留者数は含まれていないのであろう。その詳細は明らかでないが、ソ連抑留と関連するという意味で敗戦国ドイツ人捕虜、日本人捕虜と戦
勝国ソ連人捕虜の概数をみておくと次のようになる。

1)ナチス・ドイツが、連合国の兵力に属する者を多数捕虜として抑留したのはもとより、約600万といわれるユダヤ人をはじめ兵力に属さない膨大な数の人間を強制収容所に抑留し、虐殺を
行ったことは、よく知られている。他方敗戦国となったドイツの側では、戦争中および戦後のこれまた膨大な数の将兵が連合国側によって捕虜として捕獲・抑留された。
ドイツ人の捕虜は、ソ連、アメリカ、イギリス、フランス、ユーゴスラヴィア等の抑留権力下に置かれたが、その総数は焼く1109万4000人といわれる。イギリス管轄370万人(フランス、ベルギー、オ
ランダに一部引渡し)、アメリカ管轄380万人(フランス、ベルギー、ルクセンブルグに一部引渡し)、ソ連管轄315万5000人(チェコスロヴァキア、ポーランドに一部引渡し)フランス管轄24万5000
人(イギリス、アメリカからの引受けの結果93万7000人となる)、ユーゴスラヴィア管轄19万4000人というのが概数である。実際の抑留・強制労働地域は、ドイツ本国を含めてもっと広い範囲
にわたる(注4)。ここで留意すべきは、イギリス、アメリカ、ソ連によるドイツ人捕虜の他の抑留国への引渡しという経過である。これは、捕虜受領国の戦後復興のための労働力の供給という意
味をもつものであった。彼らがどのような状況の中で捕虜として待遇されたかについては、詳細な記録が作成されている(注5)。
ドイツ人捕虜の本国送還は、アメリカ管轄下捕虜が最も早く、1947年はじめには完了しているとみられる。その他の連合国管轄の捕虜については、1947年4月23日の連合国モスクワ外相会
議においてドイツ人捕虜は48年12月31日までに本国に創刊することが決められた。それにしったがって、たとえばフランス管轄の捕虜の送還は1948年12月8日、ユーゴスラヴィア管轄の捕虜送
還は1949年1月18日で最終となる。ただし、有罪判決を受けた者、なお取調中の者などは残留している。その後もポーランドでは1950年はじめまで、ソ連では1950年以降も戦犯とされた者
の抑留が、逐次数は減少しながらも、1956年まで継続した(注6)。
のちに日本人捕虜のソ連抑留に即してあらためて検討するが、捕虜は「平和克復後成るべく速やかに」送還するのが国際法上の原則である。ドイツが無条件降伏したのち、連合国がドイツ
人捕虜を必ずしも「成るべく速やかに」送還しなかったについては、いまのところ筆者にはその理由を明確に述べる用意がない。念頭に浮かぶことの一つは、さきに抑留国間における捕虜の引渡
し(現代版奴隷取引ともいわれる)と関連して指摘した、戦後復興のための労働力利用ということである。これについては、1945年2月の英米ソ首脳の戦後処理にかんするヤルタ会談におい
て「ドイツは、戦争中に連合国に対して生ぜしめた損害を、現物をもって弁償しなければならない」ことが協定され、この現物賠償の方法の一つに「労働力の使用」が含められていることが想起
される(注7)。
もう一つは、1945年6月5日のベルリン宣言第2条が、a項で「陸軍、空軍、対空軍およまたは補助的組織をふくめて、ドイツまたはドイツ軍の指揮下にある一切の軍事力」は完全に武装解除
されるとしたあと、b項でこれら「一切の軍事力に所属したものは、あらためて決定があるまで関係連合国最高司令官の自由裁量により、戦争犯罪人として宣言される」(傍点筆者)と規定し
ている点である(注8)。ファシズムの根絶とドイツの完全な非武装化、非軍事化を追求したドイツ問題処理政策が解体された「一切の軍事力」の連合国権力下への一定期間の抑留政策
につながっていたのかもしれない。
ソ連との関係でいえば、1941年から1945年にかけてソ連に捕獲・抑留されたドイツ人捕虜は総数約315万で、そのうちソ連領内抑留者は306万(ソ連側資料では238万9560人)(注9)といわ
れるが、そのうち戦時中に約55万人、1945年5月から1950年までに約54万3000人、1956年までに続いた抑留期間をとおして総計109万4250人(または111万人)が死亡しているといわれて
いる(注10)。彼らが強制労働に従事させられたのはいうまでもないが、政治教育も行われ、収容所では反ファシズム委員会のもとに「民主運動」が展開された。もっとも、捕虜の「再教育」
は、1945年8月のポツダム協定における「ドイツの教育は、ナチスおよび軍国主義の教義を完全に除去し、民主主義理念の成功的発展が可能になるように、管理する」との条項にしたがった
ものともいえるのであって、ソ連抑留の捕虜にかぎらず、他の連合国の捕虜の場合にもみられたことである。ただ、「民主主義理念の成功的発展」の内容の捉え方が他の連合諸国の場合と
ソ連の場合では違っていたことはいうまでもない(注11)。

2)ところで、連合国諸国側でもドイツ・日本の捕虜となった者は多いが、この点で最大の犠牲者をだしたのはソ連である。ソ連は、ナチス・ドイツの侵略にたいして「祖国防衛戦争」を遂行し、
その過程で多数のドイツ将兵を捕虜としたのであるが、他方ではドイツ軍の捕虜となった者だけで573万4528人におよび、死亡者330万人(57.8%)といわれる(注12)。これはドイツに抑留さ
れた西側諸国の捕虜と比べてソ連人捕虜が特別に虐待されたことを示している(注13)。
別の資料では、ドイツおよびその同盟国に抑留された「ソビエト市民」の総数は1018万1356人にのぼり、うちドイツの強制収用所に連行された文民が562万2336人、捕虜となった将兵が455
万9000人になったとしている(注14)。いずれにしても最終的に確定したものではないようである。
ソ連人捕虜・被抑留者は、ソ連軍および連合国軍の進攻にともない、さらにはドイツの無条件降伏によって解放されたものであるが、しかし、ドイツ降伏の日にソ連政府の送還事務全権代
表部に登録されたのはドイツ支配下にあったヨーロッパ全域で222万2613人(捕虜79万1414人、文民143万1199人、子ども40万6546人)にとどまり、そのうち、45年5月10日現在で解放さ
れたのは168万2605人であって、祖国帰還はかならずしもスムーズではなかったとされている。前記送還事務管理機関が解消された1952年後にもなお世界各地に未帰還者が残留していた
(注15)。これについては、戦後国際政治の問題も絡むであろうが、ソ連当局の自国民捕虜・被抑留者にたいする態度の問題が大きい。ソ連ではこの問題が一種のタブーとなっているのであ
るが、ペレストロイカ以降少しずつ明るみにだされるようになった。戦勝50周年が大規模に記念されようとしている今日のロシアで、1995年1月24日に「大祖国戦争期および戦後期に帰還した
旧ソビエト捕虜・文民である〔現〕ロシア市民の適法な権利の回復について」という大統領令がでたが、その第一条によると、標記の者等にたいする「旧ソ連の党・国家指導部の行動および国
家諸機関による強制措置は、人および市民の基本的権利に反し、政治的弾圧であると認める」となっている。ここに含まれている問題については、のちに述べる。
なお、ソ連には、前記ドイツ人捕虜、後述の日本人捕虜のほか、ハンガリー、ルーマニア、オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランドなど24ヵ国総数417万2042人の捕虜が抑留されていたとい
われる(注16)。

3)さて、ドイツと同じ敗戦国日本であるが、アジア・太平洋戦争中における日本軍の捕虜については、筆者はその全体状況を性格に伝える資料に接しえていない。厚生省引揚援護局の『引
揚げと援護三十年の歩み』(1978年)によってみると、1945年8月の無条件降伏によってアメリカ軍、イギリス軍、オーストリア軍、中国軍、ソ連軍それぞれの管理下におかれた陸海兵員は、
日本本土配備の数をのぞくと、総数約353万4000人となるが、これが上記各連合国軍の「権力内に陥った」者、つまり捕虜として抑留された者の総数を推定させる基礎数ということになるで
あろう。そのうち中国軍管下の者が約135万人で最大であるが、ついで多いのはソ連軍管下の67万9776人であり、後者のうち57万6866人がソ連領内に連行された(後述)。
ソ連軍管下のそれを除く日本人捕虜は、基本的には1947年末までに本国に送還されているが、ソ連に抑留された者は、大多数は1949年までに送還されたとはいえ、最終的に送還が完了
するのは1956年である。この間、6万2069人が死亡したとされる。この問題はあとで詳しく述べる。
日本人捕虜の抑留状況にかんする個人的・集団的記録が圧倒的に多いのはソ連に抑留された者にかんしてであるが、それでもソ連抑留の全体についてのまとまった正確な記述はまだない。
その他の地域に抑留された者についての記録にいたっては個人的なものも非常に少ない。「抑留問題」とはソ連抑留の問題だけのことだと考えられる傾向があるくらいである。それにはそれなり
の理由があるが、第二次世界大戦における日本人捕虜の全体状況についての本格的な調査・記録が存在しないのは、ドイツと比較しても異常である。
他方、戦争中に日本軍によって捕獲・抑留された連合国側の捕虜は、約35万人で、そのうちイギリス、オランダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ6ヵ国の本国軍の将兵は15万
弱といわれる。死亡者は3万5000人台ないし4万2000人台で平均死亡率は27.1−28.5である。これには中国人捕虜などは含まれておらず、ここでも全体の詳細はまだ明らかにされていない。
日本では捕虜にかんする公式文書は敗戦直後にほとんど焼却されてしまったので、正確に実態をつかむことはきわめて困難となっている(注18)。
以上、主としてドイツ、ソ連、日本について第二次世界大戦とかかわる捕虜の規模を一瞥したのであるが、みられるとおり、膨大な数の人間が捕虜としての運命にさらされた。その生存を願
い、帰還を願った家族の者たちを加えれば、捕虜の運命にかかわる嘆きの広がりは想像にあまりある。そして、捕虜の大部分は戦争に駆り立てられた兵士大衆であり、つまるところ民衆であっ
た。この被害者たちは、同時にまた、他国の民衆にたいする加害者軍の構成員でもあった。これらの捕虜それぞれについて、捕虜として捕獲・抑留されるにいたった事情・根拠、抑留国の戦後
生活条件のもとでの捕虜の収容・強制労働の実情、1929年ジュネーヴ条約ないしそれに相当する国際法の一般原則に照らしての待遇の諸側面の実情、捕虜虐待問題などのその後の処
理、さらには彼らが本国に送還されたのちの彼らにたいする本国の対応、生活保障問題、補償問題などの実態が問われなければならない。
以下では、日本人捕虜のソ連抑留問題、ソ連および日本における自国捕虜の取り扱いの問題にかぎって若干の考察・紹介を試みる。


(1)高野雄一『国際法概論』下(弘文堂、全訂新版、1986年)、452頁以下参照。
(2)ZurGeschichite der deutschen Kriegsgefangenen des 2. Weltkrieges, Bd. 10/2,Munchen, 1973, S69-71.参照―以下ZurGeschichiteと略す。
(3)ヴェ・ガリツキー「捕虜問題およびそれに対するソビエト国家の態度」、ソビエト国家と法、1990年No.4、124頁。
(4)ZurGeschichite. Bd.15, S.191, 207-208, Bd.2,S.68.による。
(5)藤田勇「ソ連におけるドイツ人捕虜」(オーロラ、15号)参照。但し、これは注2文献の第2巻のみによる紹介である。なお邦訳された文献として、パウル・カレル、ギュンター・ベデガー(畔上
司訳)『捕虜』(フジ出版社、1986年)が参考となる。
(6)ZurGeschichite. Bd.15, S.191-192, 194-197,Bd.1/2, 9-11, Bd.13,S.127-132.による。
(7)アルチュール・コント(山口俊章訳)『ヤルタ会談=世界の分割』(サイマル出版会、1986年)所収の「クリミヤ会談の議事に関する議定書」を参照。
(8)憲法調査会事務局『ドイツ連邦共和国基本法制定の経過』(1960年)の付属資料参照。
(9)これについては、高橋大造「“スターリンの極秘指令”を読む」(オーロラ、15号、1992年)を参照。
(10)ZurGeschichite. Bd.7, S.49, 125,Bd.15, S.258-259.
(11)Zur Geschichite. Bd.2,S.82, 183,Bd.15, S.258-259.なお、ポツダム協定については注8文献参照。
(12)ガリツキー前掲、またYuriTeplyakov, Prisoners of War, Moscow News, 1990No.19.を参照。ヴェ・ナウーモフ「ソビエトの捕虜」(ロシア通報、1995年1月31日号)によれば、これはドイツ
側資料による数字である。
(13)パウル・カレル他前掲、346-349ページ参照。
(14)ア・シェビヤコフ「戦後送還の“秘密”」、社会学研究、1993年、3号5頁以下、―なお前掲ナウーモフ論文では捕虜405万9000人となっている。
(15)前同参照。
(16)注9文献参照
(17)油井大三郎・小菅信子『連合国捕虜虐待と戦後責任』、岩波ブックレット、1993年、8−9頁。
(18)「南アルプスに捕虜の日々」、朝日新聞、1994年1月11日号参照。
第二次世界大戦と捕虜問題(2)=『ユーラシア研究』No.9(95年10月号)







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