抑留問題資料|第二次世界大戦と捕虜問題

抑留問題資料/第二次世界大戦と捕虜問題



第二次世界大戦と捕虜問題 5/5     |< << >> >|
おわりに

以上、第二次世界大戦と捕虜の問題についてその若干の側面をみてきたのであるが、抑留と送還の実態についても、それらをめぐる政治過程(国内・国際)についても、解明されている部分
が少ないことを痛感させられる。この小文の範囲内だけでも、それを津ずるあいだに、いくつかの点でいままで思いこんでいたことと異なる事実関係のあることに気づかされた。少ないとはいえない
個々の捕虜体験者の記述だけでは、いまだ解明されていない問題領域に光をあてることは(10)ヴェ・ゼムスコフ「ソビエト市民の帰還と彼らのその後の運命(1944-1956)」、社会学研究、
1995年、6号、3頁以下、9頁以下、ヴェ・ナウーモフ前掲を参照。(11)Teplyakov前掲参照。
ソ連抑留の全体像の解明を―若い世代の研究に期待する
戦争捕虜を世界からなくするために

日本人の戦後ソ連抑留については、夥しい数の体験記がある。「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」は、約370の体験記と関連諸資料を整理収録する『捕虜体験記』全
8巻(1984-1998年)を刊行して注目された。他方、1990年前後から、旧ソ連・ロシアの研究者によって公開されたアルヒーフ文書による研究が進むようになった。けれども、ソ連による日本人
捕虜・被抑留者抑留問題の全体像の客観的研究という観点からいえば、戦後55年余を経てそれはいまだ初歩的段階にとどまっている。私自身その編集に協力した前期『捕虜体験記』の
第1巻「歴史・総集編」も、元捕虜の手になる体験記としてもつ独自の意義は別として、この体験のいわば「外的枠組み」全体の把握という点でいえば、初歩的研究段階の状況によって制
約されている。
全体像の把握のためには日本の中国・朝鮮に対する植民地支配と旧大日本帝国軍隊の性格、日ソ戦争の性格を押さえていなければならないが、これについては解明がかなり進んでいるの
でここでは省略し、今後解明を進めるべき問題を幾つか挙げておく。

1  まず問題なのは、捕虜(Prisoners ofwar)及び文民たる被抑留者(internee)*の総数、武装解除地での数とソ連領内・モンゴル領内に移送された者の数、そのうちの死亡者数・死亡
者名、送還=帰還者数、不当に「戦犯」とされたものの数等が最終的に確定されていないことである。これは本来日本政府が確認の責任を負う事柄であるが、責任が全うされていない。こ
れには、抑留国が「捕虜情報ビューロー」を通じて捕虜の状況をその所属国政府に通知する義務を負うという国際法上の義務(1929年ジュネーブ条約―ソ連も日本も加盟しておらず)が果
たされなかったこととも関連している。『捕虜体験記』第1巻では当時最も詳細とみられたガリツキー氏の調査データが引照されているが、それ自体完全なものではなく、その後の研究で示され
ているデータなども含めて、正確な数を確定する必要がある。これは、単なる統計的問題ではない。人間の尊厳を奪われた者の総体の認識にかかわる問題である。

*「捕虜」、「被抑留者」という概念の意味、連合国が無条件降伏で「武装解除された敵国軍」、「降伏敵国人員」について「捕虜」概念を適用した経過については藤田「第2次大戦と捕虜
問題」ユーラシア研究8-10号を参照。

2  ソ連政府の長期にわたる抑留・労働使用は、捕虜は「平和克復(the conclusion ofpeace)後なるべく速やかに」送還するとの当時の国際法上の原則(1929、ジュネーブ条約)に反し、
かりに「平和克復」の時点について解釈問題があるとしても、1949年ジュネーヴ条約118条の「即時釈放主義」の先取りともいえるポツダム宣言(ソ連8月ウ8日ポツダム宣言に参加)第9項に
は明瞭に違反する。文民抑留の不当性・違法性も独自に吟味さるべきである。
ところで、ソ連政府によるそうした政策の最終決定(その準備がいつ始まったかは不明)は8月23日の「日本軍捕虜50万の収容・配置・労働使用に関する」国家防衛委員会決定であるが、
その前の8月16日に内務人民委員ベリア等が極東ソ連軍最高司令官ワシレフスキーに宛てた電報で「日満軍の捕虜のソ連領への移送は行わない…」と指示している。この両者の関
係については、その間のソ連の北海道北部占領要求をめぐるスターリン、トルーマンのやりとりが関連しているとの推測もありうるが、最近カルポフ氏(『スターリンの捕虜たち』長勢了治訳、北海
道新聞社、2001年)は、8.16電報はソ連領内移送のための「準備的性格」のものであったと指摘している。いずれにしても、ソ連政府の政策決定過程を、1945年2月ヤルタ会談以降の戦後
処理をめぐる国際関係、連合国各国による日本人捕虜抑留、またドイツ人捕虜抑留との対比、を含めて明らかにする必要があろう。

3  前期『捕虜体験記』第1巻は、抑留権力の政策、特に労働使用・給養政策とその実施状況につき、若干の資料でこれを記述しているが、これについてはロシア等の研究者によっても少し
ずつ明らかにされつつあり、特にソ連政府の「政治工作」(体験記における「民主運動」に対応)や送還業務の実態については前記カルポフ氏が捕虜自身には判らなかった諸事実を明らかにし
ている。だが、抑留権力側の諸命令、当時の権力メカニズムのもとでの下級諸機関の実施報告書は、それとして特定の性格をもつものであって、それだけで抑留の実像が描けるものではな
い。そこに捕虜・被抑留者自身の体験記録のもつ重要な意味がある。これらをつきあわせて実像に迫る試みを日本、ロシアの研究者の共同研究に期待したい。

4  日本政府の抑留問題に対する政策を敗戦時、占領期、サ条約以後、日ソ国交回復交渉時、それ以後等に時期区分して吟味してみる必要がある。抑留・死亡(埋葬)等の厳密な調
査や送還要求をどのように行ってきたか、「シベリア抑留補償訴訟」をも含めて抑留補償問題にどのように対処してきたかなどを、諸外国の自国民捕虜に対する補償政策とも非核して研究し
なければならない。敗戦時にみられる棄民政策的発想、帰還者に対する思想調査問題などにも留意する必要がある。日本政府の戦後補償問題にみられる「戦争の犠牲は受忍すべし」の
態度は、戦争の惨禍の根絶の保障にはならない。
上記諸問題を含む抑留の全体像の解明を若い世代に期待するのは、日本史上未曾有の痛切な国民的体験を正確に歴史に刻み込むことにより、戦争とその不可避の産物たる捕虜現象
を世界から追放するためであるのはいうまでもない。(2001年6月24日「市民学会」での報告要旨に加筆)

藤田勇(東京大学名誉教授)









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