抑留問題資料|第二次世界大戦と捕虜問題

抑留問題資料/第二次世界大戦と捕虜問題



第二次世界大戦と捕虜問題 4/5     |< << >> >|
4 送還された捕虜にたいする本国政府の扱いについて

1)ここで取り上げる問題


捕虜問題には、抑留国による捕虜の捕獲・連行・抑留・送還等の諸問題とこれらに対する捕虜所属国の対応の問題がある。後者、すなわち捕虜・被抑留者となった自国民にたいする本国
政府の対応には、現に捕虜等となっているものの扱いの問題―そこには、捕虜・被抑留者の確認、そのうちの死亡者の確認、赤十字国際委員会等しかるべき国際団体を通ずる連絡・援
助、捕虜・被抑留者の家族の援護等にはじまり、本国送還の促進にいたるまでさまざまな問題が含まれる―と、釈放されて本国に帰還した元捕虜に対する本国政府の扱いの問題がある。
ここでは、送還され、帰国した元捕虜にたいする本国政府の扱いにかぎって、若干の問題を指摘しておきたい。日本では、これについてこれまでまとまった考察がほとんどない。前々号で触れた
旧ソ連・ロシアとドイツについてであるが、旧ソ連ではこの問題が長い間タブー視されていたが、ペレストロイカ期以降ようやく事態が明らかにされはじめている。日本人捕虜の抑留国のことであ
るので、これについて多少紹介しておきたい。ドイツについては筆者は全体の状況を知りえていない。「抑留補償」について参考になる点に触れうるにとどまる。

2)元捕虜にたいする日本政府の対応の一側面

(1)「引揚者」一般の中で
日本人の捕虜・被抑留者にたいする日本政府の対応については、厚生省『引揚げと援護三十年の歩み』(1978年)が概略を述べている。そこで特徴的なことは、外国権力に抑留され、強
制労働に服している国際法上の捕虜が、ひたすら「いまだ引揚げていない者」、「いまだ帰らざる者」という一般的な概念のなかで扱われていることである。したがって、帰還捕虜についても、「復
員」「引揚げ」という観念でこれを扱っている。
そこでは、「復員及び引揚げに伴う援護」について、上陸地における援護(宿泊・給食・帰郷旅費=帰還手当て支給等)と定着後における援護(引揚者住宅・厚生資金貸し付け等)とが述
べられているが、その対象は、「海外各地の連合国軍又は相手国の管理下に抑留され、又は集団で難民生活等を続け、この間多くの苦難を経て引揚船により故郷の土を踏んだ」引揚
者、「怒とうのように引揚げてきた六百万余にのぼる海外引揚者」であって、このうち特に元捕虜に関するものは、1953年3月以降帰還したいわゆる「戦犯裁判」による被拘禁者にとどまる。定
着後の援護についていえば、「明治以来約八十年、父祖代々営々として海外に築きあげた財産を放棄し」「全く文字どおり『はだか一貫』で引揚げざるを得なかった」者を念頭においたもので
ある。(前掲『三十年の歩み』、127頁135頁)したがって、一般的にいって、帰還した元「捕虜」にたいする政策というものは浮かび上がってこないのである。かといって、この『三十年の歩み』以
外に政府のまとまった文書があるわけではない。

(2)思想調査
他方、そこで説明されていない問題に帰還者の思想調査の問題がある。帰還者にたいしては、政府の「引揚問題」担当機関によって系統的に思想調査が行われたばかりでなく、占領軍当
局によっても特別の思想調査または抑留国にかんする情報調査が行われた。ソ連に抑留されていた日本人捕虜の大部分が帰還した日本は、形式上は連合国軍の、実質的には、アメリカ
軍の占領下にあり、しかも米ソの対立構造の中での日本であった。ソ連から帰還した元捕虜の調査においては、米軍と日本政府は一体の関係にあったものとみられる。
例えば、1946年12月の「ソ連地区(沿海地方)第一次帰還者に関する調査復命書」(外務省「北方課長」サイン)には、詳細な聞き取り項目によって「最近のソ連事情」、「ソ連の現実およ
びソ側論評に対する帰還者の所感及びその及ぼした影響」、「政治教育」・「特殊政治教育」の状況が記載されている。そこでは「抑留者に対する政治教育の直接の衝に当たっているものは
すべて抑留中の有志であって、ソ連が表面に立って指導することは避けているようである。」と評しながら、「日本新聞」、「友の会」の活動などについて詳しく述べ、「『友の会』への参加あるいは
その役員であったというだけで彼らを白眼視することは面白くないと思われる。特に、後述米側のしゅん烈な態度は却って危険ではないかと危惧される。」という所見が記されている。(外務省
記録・外務省文書化、リールno.k-0001)。
第一回帰還者についての調査にかんする外務省管理局在外邦人部大陸課の1946年12月26日付報告書「ソ連及びその占領地区に於ける日本人の状況」は、「思想問題」の項で次のよ
うに述べている。「………(俘虜達は)共産主義理論とソヴィエト生活の実際とは全く相違しているのを見て、新日本建設に邁進する健全な思想を有している様である。然
し、彼らに対する内地の受入態度如何によっては彼らの思想動向は変化するおそれがあると認められる。」(前同)
こうした思想調査が帰還者の上陸の都度行われたようであるが、1947年6月17日の引揚援護院長官の天皇への「引揚および引揚援護に関する上奏」(「要旨」の中の「引揚者の思想動
向」の項は次のように述べている。「これらの人々の思想動向につきましては、特に、各種の方面より、調査をすすめております。アメリカ軍においても、特に、周到な調査を行っているように察せ
られます。上陸第一歩の思想動向を、一概に断定するのは危険でありますが、調査記録に見ますると、心から共産主義に賛成した者は、比較的少数と判断されます。昨今の困難な事情
に接します時には、あるいは左翼的方向に走る恐れもございますので、就職のあっせん、その他必要な援護には、特に心して、十分力をつくさねばならぬことと心得ております。」(前記『三十年
の歩み』付録資料、544頁)米占領軍と日本政府が帰還者の「共産主義」思想調査を「各種の方面から」「周到に」行ったこと、そうして「引揚者」の「援護」活動にも思想コントロール(「左
翼」化予防)の観点があったことが明記されている。
米占領軍のソ連帰還者調査についていえばGHQのCIC(対敵諜報部隊)が帰還者のうち(おそらくは上陸地での前記調査などにもとづいて)眼をつけた者を随時呼び出して尋問を行い、ソ
連各地の情報を探るとともに、ソ連との「協力関係」の有無などを執拗に訊問した(注1)。この場合、電気仕掛けの「嘘発見器」が用いられたことは、よく知られている。これがどれだけの規模
にのぼるかは明らかではないが、一度に百名規模の者が呼び出されていたという記録がある(注2)。
なお、この種の調査の例ではないが、1950年のいわゆる「徳田要請問題」(注3)にかんする国会(衆参両院)特別委員会での執拗な尋問により、帰還者である哲学者の菅季治氏が自殺
に追い込まれた事件は、ソ連抑留からの帰還者にたいする暗く重苦しい精神的圧力を象徴するものであった。抑留経験者たちの多くは、長い間抑留のことを口にするのをためらったのである。

(3)「抑留補償」問題
つぎに抑留補償問題をとりあげてみよう。比較のためにドイツについてまず触れておく。
ドイツは戦後連合国の占領統治下におかれ、1949年にいたってドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)に分かれて分裂国家体制となる。ここでは西ドイツのみを取り上
げる。そこでは、1950年の帰還者(捕虜・被抑留者で帰還した者)の援護措置に関する法律で釈放金支給や移動援助にはじまり就業・住宅・社会保障等を含む帰還者援護諸措置を講
じたが(1950年6月13日「捕虜の家族のための生活扶助に関する法律」、1950年6月19日「帰還兵援護措置法」など)、1954年1月30日には「元ドイツ人捕虜の補償(Entschadigung)に
関する法律」が制定され(1971、1987年改正、ドイツ統一後1992年廃止)され、帰還した元捕虜・被抑留者(軍人・軍属のほか戦争状態との関連で抑留されたものを含む)にたいし、抑留
期間に応じた月単位計算の補償金支払い(限度額12,000マルク)が行われることとなった(この補償請求権は相続できる)。これによって、外国抑留中の自由剥奪および強制労働について
の自国政府にたいする請求権は消滅したとされた。なお、このほか、生活基盤確立・住居入手・家財調達のための貸付・扶助金交付の制度も規定された。
わが国では、「引揚者」「復員者」にたいする前記の一時的援護措置等は別として、こうした抑留補償は行われていない。1988年になって、「平和祈念事業特別基金等に関する法律」によ
り、「戦後強制抑留者」(1945年9月2日以後ソ連およびモンゴル人民共和国において抑留され日本に帰還した者)またはその遺族に「慰労品」を贈呈し、「戦後強制抑留者」または1988年
7月31日以前に死亡した「戦後抑留者」の遺族で、日本国籍をもち、抑留期間が在職年に算入されるかまたは抑留期間内に給与事由が発生した恩給法上およびそれ以外の年金・遺族
年金の受給者でない者、そうして支給請求をした者にかぎり、10万円(記名国債)を「慰労金」として支給することとなった。しかしこれはあくまで限られた範囲の「慰労金」であって、抑留補償
ではない。
1981年、斎藤六郎氏ら62名が国を相手どって、抑留期間中の強制労働にもとづく貸方残高の支払い、労働による負傷またはその他の身体障害にかんする補償、抑留国が取り上げた金
銭および有価物で送還のさいに返還されなかったもの等にかんする補償を要求する訴訟を起こした。1988年4月13日、東京地方裁判所の判決は原告の請求を全面的に棄却、原告の一
部はこの判決を不服として控訴したが、控訴審である東京高等裁判所の1993年3月5日の判決は第一審判決を維持して控訴を棄却した。原告は目下最高裁判所に上告中である。原告
の主張のうち、中心的争点となったのは、つぎの点である。
すなわち、1949年ジュネーヴ条約(捕虜の待遇に関する条約)では、抑留中の労働報酬にかんする捕虜の貸し方残高の支払い、労働災害等の損害賠償、抑留中取上げられていた金銭
等の返還は、それぞれ抑留国の権限ある者の証明にもとづき、捕虜の所属国に請求できることになっている(66条、68条)。49年条約を日本が批准したのは1953年10月21日(ソ連の批准
は1954.11.10)であるが、49年ジュネーヴ条約66条、68条の規定は、第二次世界大戦終結時には国際慣習法として確立されており、国際慣習法は国内法による具体化なしにも適用さる
べきである。故にソ連抑留捕虜は、所属国たる日本政府に補償を請求する権利がある。原告側はこれを主張した(注4)(注5)。
判決がこれらの主張を斥けていること、とくに「捕虜所属国賠償原則」が1949年ジュネーヴ条約以前に国際慣習法として成立してはいなかったとする判決理由について、国際法学者のあいだ
では賛否両論がある(注6)。筆者は、国際法専門家として論評を加える立場にはないし、ここではこれに立ち入る余裕もないが、諸外国の例にみられるように労働支払い等の決済について
政府が抑留国と協定を結んでもおらず、またドイツのほかアメリカ、フランス、カナダなどのように戦後に捕虜補償法ないし戦争請求権法を制定して抑留補償を行う政策もとってもいないわが
国の場合、裁判所に期待されるのは、捕虜の人権擁護の立場から、その賃金請求権・損害賠償請求権をどのように有効に保障できるかについて国際法およびそれと国内法との関係を解
釈することであろう。そのさい、その保障の抑留国方式と所属国方式とは選択的かつ相互補完的関係にあり、また国際慣習法の成立、国際法上の「法的信念」ないし「必要信念」の存在
についてはその「方向性」の存在の実証という観点が重要だ、とする広瀬氏の主張には注目すべき論点が含まれていると思われる(注7)。
いずれにしても、この訴訟は、一般的には戦争被害者としての捕虜の問題、特殊的には「抑留補償」問題について世論を喚起する役割を担うと同時に、この問題でのわが国の政府の立場
が、他の諸問題におけると同様、戦後補償問題全体に対して消極的であることを明らかにしている。

3)スターリン体制下でのソ連人捕虜

最後に、日本人捕虜の抑留国であるソ連政府による帰還ソ連人捕虜の取り扱いについてみておこう。
第二次世界大戦は、ソ連では、「偉大な反ファシズム祖国防衛戦争」であった。そして、捕虜となることは「祖国の裏切り」とみなされた。彼らには赤十字国際委員会を通じる本国からの外交
的保護手段は一切とられなかったようである。日本では戦陣訓によって「生きて虜囚の辱めを受けず」とされたが、1941年8月16日の赤軍最高司令部命令No.270は、「敵の捕虜となった指
揮官、政治勤務員は……悪意の脱走者とみなすべく、その家族は宣誓に背き祖国を裏切った脱走者の家族として拘留される。」とし、「……かかる指揮官もしくは赤
軍軍人の一部が敵にたいする反撃を組織するかわりに捕虜となることを選んだ場合は、地上および空からのあらゆる手段をもってこれを撃滅すべく、捕虜と「なった赤軍軍人の家族は国家の
手当・援助を剥奪される。」と規定している。過酷な規定である(家族については、1941年6月28日の内務・国家保安両人民委員部共同命令「祖国反逆者の家族のソ連極北地域流刑
手続き」というのがある)。
1927年7月27日の軍事犯罪規定22条、ロシア共和国警報193条-22では、「……戦闘状態によって余儀なくされることなしに捕虜となること、……ならびに敵側に移
行することは――財産没収をともなう社会防衛の最高処分を受ける。」となっており(「社会防衛処分」は1934年7月8日法以降は「刑罰」と読み替え、またここでいう「最高処分」は銃殺―
―但し、1947年5月26日-50年1月12日の間は死刑廃止)、この規定が、裁判所の判例では、刑法58条-1bの祖国反逆罪として扱われることが多かった(1957年2月15日改正でこれが
「臆病により捕虜となる」罪であるとの解釈を明確化)。指揮官については刑法193条-21で「戦闘命令違反」行為につき、利敵目的の場合は193条-22と同様の刑、利敵目的がなくても軍
紀違反の場合で加重事由あるときは最高社会防衛処分とされていたが、これも捕虜となった場合に適用された。したがって、第一節でみたような膨大な数の捕虜のうちの少なくない者が、ナ
チス・ドイツの収容所で虐待されたうえ、自国政府によって過酷な運命に追いやられることになったのである。戦時中の釈放捕虜の扱いについては、このほかにさまざまな制度的措置がとられて
いるが、ここでは省略する(注8)。
戦後の釈放捕虜についていえば、ある論者によれば、1945年春のベラルーシおよびウクライナの緒戦線軍司令官あてのスターリン命令により、元捕虜・被抑留者をほぼ10,000人単位で「調査
収容所」(全100収容所)に集め、そこで「フィルター」にかけられたのち、数は確かでないが多くの者がいわゆるスターリン命令No.270によって「ソビエトの強制収容所」へ送られたという(注9)。一
般に、元捕虜将校は戦後特に綿密な点検を受け、内務人民委員部の指定により、強制労働収容所送りのほか、特別地域移住、「労働大隊」編入等の処分を受ける者が少なくなかった
ようである。1944年8月の国防委員会命令で国境地帯に「帰還者調査処」が組織され、帰国在外市民の調査が行われるのであるが、家郷に帰りついた市民も、1945年6月16日のソ連内
務人民委員部=国家保安人民委員部の命令により、これらの地方機関の点検を受け、強制移住または「労働大隊」送りなどの運命にあった者がいる。この場合は、外国の反ソ機関の影
響などが点検対象であったようである。しかし、これらの中にも、元捕虜が含まれていたのである。(注10)。
1956年スターリン批判後、収容所送りとなった元捕虜は、1956年9月20日のソ連最高ソビエト幹部会令によって釈放され、権利回復がなされるのであるが、「人民の的」ではなくなっても名
誉ある「祖国防衛者」とはなれず、「その中間」として扱われ、「白」とはなれず、「灰色」のままとされたようである。そういうわけで、捕虜問題を提起すると、「話題を替えよう」、「そんなこといわな
いほうがいいぜ」という社会的雰囲気で、抑留問題は完全に「タブー」とされた(注11)。
ソ連抑留の日本人捕虜の回想記には、労働と生活の中で上記のような扱いをうけたソ連人元捕虜と人的交渉のあったことが記されている。
ペレストロイカとなってから状況が変わり、捕虜問題は「全体主義の悪」あるいは「戦争の勝利の代償」として論じられるようになる。ソ連崩壊後の1995年、戦勝50周年を祝うロシアでは、1月
24日、「大祖国戦争期および戦後期に帰還した元ソビエト捕虜・文民であるロシア市民の適法な権利の回復について」という大統領令がでたが、そこでは元捕虜等にたいする旧ソ連党・国
家指導部の行動、国家機関の強制措置は「人および市民の基本的権利に反し、政治的弾圧であると認める」とうたっている(1条)。これにより、ドイツ軍に勤務した者等を除き、不当処分
を受けた元捕虜は「大祖国防衛戦争参加者」証明を取得し、「ナチスの迫害を受けた者に対する補償」を受けることになった。








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