抑留問題資料|第二次世界大戦と捕虜問題

抑留問題資料/第二次世界大戦と捕虜問題



第二次世界大戦と捕虜問題 3/5     |< << >> >|
3 日本人捕虜のソ連抑留問題

日本人捕虜のソ連抑留については、おびただしい数の個人的体験記があり、多くの論述がある。筆者の参加している「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」でもこれまでに7
巻の『捕虜体験記』を編集・刊行し、現在これのまとめとして第一巻「総集編」を準備中である。しかし、客観的に確認しうる、また当然に確認されてあるべき事実で戦後50年の今日なお不
明のままに残されているものが多く、その解明が課題となっている。
この項で述べるのは、主として抑留の前提・根拠にかかわる問題であるが、抑留の経過、強制労働と抑留生活実態、抑留体験内容等の問題とともに、詳しくは筆者が直接執筆に加わって
いる前記『体験記』・「総集編」をみていただきたい。

1)留問題の発端と諸前提

(1)日本人捕虜のソ連抑留という問題の直接の発端は、1945年8月14日に日本がポツダム宣言(1945.7.26)を受諾してソ連を含む連合国にたいし無条件降伏したところにある。9月2日、
連合軍総司令官および米・中・英・ソ・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド代表と日本政府とのあいだで降伏文書の調印がなされ、同日、連合軍最高司令官の指令第
一号付属一般命令第一号(陸・海軍)により、「満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太および千島諸島」の日本軍の降伏および武装解除はソ連極東軍最高司令官の管轄とされた。戦線で
のソ連軍による捕獲・抑留はすでにその前からはじまっていたが、1945年9月段階でのソ連軍管下の日本人捕虜・被抑留者(これらの概念については前号参照)の総数は、1956年10月13
日にソ連内務省捕虜・被抑留者問題総管理局が同省時間に提出した報告によると、総数639,776人で、このうちの中国人、朝鮮人等をのぞくと、日本人は609,448人となる。(注1)旧ソ
連の専門家の調査では、そのうち、現地で釈放されたもの、戦線収容所で死亡した者、そしてモンゴル政府に引き渡されたもの(12,318人)を除くと、ソ連領内に連行・抑留された者は、546,
086人とされている。うち、民間人被抑留者は6,658人である。(注2)

(2)ところで、このソ連抑留日本人捕虜の圧倒的な部分(千島・樺太守備軍の約6,000人をのぞく部分)は、中国東北部および朝鮮北部で捕獲されたのであることに留意する必要がある。
彼らはなんでそこにいたのか。
大日本帝国陸軍の構成部分である関東軍および朝鮮軍は、日本による中国(東北部)および朝鮮の植民地支配のための軍隊であった。それらは、朝鮮の支配権をめぐる日清露の、また、
いわゆる満蒙の支配権をめぐる日露の角逐の中で形成された。1905年の日露戦争の結果、日本はポーツマス条約により、中国の遼東半島南端のいわゆる「関東州」の租借権と長春―旅
順間の鉄道(沿線付属地等を含む)をロシアから譲渡され、のち満州善隣協約によって清国にこの権益を承認させた。そして、この地域を統治するために関東総督府を置き、関東総督(陸
軍大将)の指揮下に約1万の兵力を駐留させることになった。これが、関東軍の前身である。その後1919年、関東都督府軍部を関東軍司令部下の軍事組織とする。ここに関東軍というもの
が正式に誕生する。さかのぼって1905年、日本は日韓条約によって勧告を保護国とし、翌々年韓国軍を解散せしめることにより、総監(天皇に直隷)や「委任の範囲内において」統率する日
本駐留軍が軍事権力を独占するが、1910年の韓国併合によって朝鮮総督(天皇に直隷)や「委任の範囲内において」統率する朝鮮陸海軍の編成ができてゆくのである。(注3)
ロシア革命後は、関東軍は、「仮想敵国」ソ連との軍事対決の主力部隊・兵站基地防衛部隊として強化される。1931−32年、日本は満州事変をてことして満州に傀儡政権を樹立、日
満議定書によって満州全土に駐兵権をもつことになる。関東軍は、その名の由来する「関東州」という限界をはるかに超えて、中国の山海関伊東全域を展開舞台とする大規模な植民地支
配軍となる。その後、関東軍は、「華北工作」にのりだし、また「内蒙工作」に走ったりするのであるが、大きくみればそれは「終始一貫ロシア(ソ連)を仮想敵国とする”北向きの軍隊&#
8221;」(注4)としての性格をもっていた。すでに関東軍成立時、誕生間もないソビエト政権にたいする日本の大規模な軍事干渉(シベリア出兵)にさいし、満州都督指揮下の在満師団がこ
れに加わったのはいうまでもない。在朝鮮19師団も同様である。(注5)
「満州国」の成立によって日本の支配領域がソ連領とじかに接するようになるにおよび、「北向きの軍隊」の性格が顕著に浮上してくる。1931年の陸軍の「国際情勢判断」は、日本帝国の
「勢力範囲」を「満州及東部内蒙古更に進んでは極東蘇領」に拡張する方針をうたっている。(注6)これにともなって、関東軍の兵力も飛躍的に増強される。そうした状況の中でソ連との国
境紛争が頻発する。1938年の張鼓峰事件(ソ連側名称はハーサン湖事件)、1939年のノモンハン事件(ソ連側名称はハルヒン・ゴル河事件)はその代表的なものである。太平洋戦争開始
の年、1941年の4月に日本はソ連と中立条約を締結するが、6月に独ソ戦争が開始されるや、7月には「帝国国策要綱」を決定して「独ソ戦争の推移帝国の為有利に進展せば武力を行使
して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」との方針を打ちだした。「北方問題を解決する」とは、ソ連の極東地域(樺太ソ連領域、カムチャッカを含む)の制圧を意味していた。このため、
「関東軍特種演習」という秘匿名称のもとに日本陸軍はじまって依頼の大動員が発動され、約70万の兵力が満州に集中輸送され、関東軍は未曾有の規模に膨張した。(注7)
その後の経過は省略するが、(注8)、この関東軍・朝鮮軍が、日本の植民地支配・侵略戦争を担う前線部隊として、満蒙の経略、ソ連の極東地方の支配を窺う軍隊としてかの地に駐留
していたことは明らかである。その圧倒的部分をなす兵士大衆は大日本帝国権力によってそこへ動員されたものである。そうして、最後には、この軍隊は無条件降伏によって捕虜となる運命に
遭遇したのであった。
ソ連に抑留された者のうち、樺太および千島列島守備隊兵力構成員については、大日本帝国軍隊の構成部分であることには変わりはないにしても、日本領土の防衛にあたっていたのであっ
て、事情が同一ではない。これについては、上述のことについても同様であるが、連合国の対日戦へのソ連の参戦の経緯、とくに1945年2月11日(1946.2.11になって好評)のヤルタ会談におけ
るソ連による樺太・千島領有の合意、そして8月段階ではすでにはじまっていた米ソの戦後政策の対立と関連させてみておく必要がある。

(3)ところで、ソ連の対日戦争参加は、第二次大戦の終結と平和の確立のための連合国の要請、ポツダム宣言への参加、日本国民の破滅的犠牲の回避などを大義名分としてうたってい
るが、(対日宣戦通告)、米英ソ間のヤルタ協定(ソ連がドイツ降伏後2-3ヶ月を経て日本にたいする戦争に参加することを協定)によるものであることはいうまでもない。当時日ソ間では中立
条約(1941年4月13日調印)が結ばれており、その有効期間は5年間であった。1945年4月5日にソ連は中立条約廃棄通告を行ったが、45年8月にはそれはまだ失効していない(条約の失
効は破棄通告の一年後)。したがって、法律論としていえば、ソ連の参戦は中立条約違反である。ヤルタにおける米英ソ三国のソ連参戦協定はそのことをも読み込んでいたのであろう。
これについては、以下の事情を念頭におく必要がある。日本は、1940年の日・独・伊三国同盟条約により、独ソ戦が行われるような場合にはドイツにたいして「あらゆる政治的、経済的及軍
事的方法による」援助を義務づけられていた。したがって1941年6月に独ソ戦が始まるや、日ソ中立条約は日本にとって非常に矛盾したものとなった。さきにのべたように、中立条約締結後まも
ない41年7月-8月に「帝国国策要綱」によってソ連極東地域制圧を目的とする「関東軍特種演習」が組織されたことは、中立条約無視とみられる背信行為であり、「日ソ中立条約侵犯の
未遂犯(注9)」ともいわれる行動であった。さらに、41年12月にはじまる日本とソ連の連合国アメリカとの戦争は、日ソ中立条約をめぐるさまざまの紛争を引き起こすことになった(ソ連船抑留・
撃沈事件等)。中立条約廃棄通告にあたってソ連側が、日本はその同盟国であるドイツの対ソ戦争遂行を援助し且つソ連の同盟国たる米英と交戦中であるので日ソ中立条約の存続は
不可能となった、と主張したのは(注10)、以上のような状況をさしている。極東国際軍事裁判の判決のように、独ソ戦中における「日本の『中立』は、ソビエト連邦に対して日本自身が攻撃
を行うまでの間、ドイツに与える援助に対する煙幕として、実際に役立つ為に企画された(注11)」と断ずるには問題があるとしても、ソ連の中立条約破棄は、第二次世界大戦の構造・動態
と切り離しては論じられない。ソ連の対日参戦が反ファシズム戦争としての第二次世界戦争の終結と米ソの戦後世界における覇権争いの始まりとの接点となっていたことも含めてである。

2)ソ連内連行・抑留の根拠

(1)日本軍捕虜は、一部の現地即時釈放をのぞき、ソ連領に連行・抑留され、一部の早期送還をのぞき大部分が長期にわたって労働を強制された。ここで問題とするのは、戦時における
捕虜の捕獲・抑留にかんする問題ではない。日本が連合国にたいして無条件降伏をしたのちにおける抑留の問題である。これについては、この稿のはじめに述べた降伏後のドイツ軍捕虜の
場合と同様の側面もあるが、必ずしも同一でない問題がある。
旧ソ連では、専門家にひょって次のような見解が述べられていた。A.ソ連軍が日本と「戦争状態(交戦状態)」にある期間に捕獲してその権力下においた「日本軍勤務者」は、1929年ジュネー
ヴ条約第1条およびソ連邦の1941年7月1日の「捕虜規定」第1条に規定するところの「捕虜」である。B.「捕虜」を抑留し、将校およびこれに準じる者をのぞく「健康なる捕虜」を「労働者とし
て使役する」権利は、これを捕獲した交戦当事国にある(1929年ジュネーヴ条約27条)。C.通常「戦争状態」は講和条約をもって終了するが、ソ日間の講和条約はまだ締結されていない。た
だ、1956年10月19日署名、12月12日発効の「日ソ共同宣言」によって「戦争状態は終了した」(1条)とされている。したがって、ソ連は本来このときまでは捕虜を抑留しておく権利があった
(実際には1950年4月までに大部分の捕虜が送還された)。(注12)
これにたいしてまず指摘しておくべきは、1907年ヘーグ条約付属規則では「平和克復の後は成るべく速に捕虜を其の本国に帰還せしむべし」(20)と規定されており、1929年ジュネーヴ条約で
は「交戦者が休戦条約を締結せんとするときは右交戦者は原則として捕虜の送還に関する規定を設くべし。この点に関する規定が右条約に挿入せられ得ざりし場合といえども交戦者は成
るべく速に之が為連絡をとるべし。一切の場合に於いて捕虜の送還は平和克復後成るべく速に行はるべし。」(75条)と規定されていることである。(注13)
ここにいう「休戦条約(休戦協定)」は、通常講和条約に先行するものであり、「平和克復」(laconclusion de la paix, the conclusion ofpeace―講和の妥結)は休戦条約締結と等しい状
態をさすものと思われる。米英中三国が日本に無条件降伏を迫った1945年7月26日署名のポツダム宣言にソ連は8月8日に参加しており、日本は8月14日にこれを受諾している。むろんたん
なる休戦・降伏は戦争を終了させるものではない。しかし、高野雄一教授の指摘されるように、「講和条約の締結に先立って、予備講和条約を結び、講和の基本となるべき条件を定めるこ
と、」があり、「日本のポツダム宣言【受諾】、降伏文書は休戦条約とこの予備講和条約を兼ねた意味を有する」(高野・前掲、475頁)と考えられる。それは、少なくとも1929年ジュネーヴ条
約にいう「休戦条約」ないし「平和克復」のときにあたるといわなければならない。この観点からすれば、1945年8月14日ないし1945年9月2日以降については、日本軍捕虜を「成るべく速に」送
還すべき国際法上の一般的義務または責務がソ連側に生じているといわなければならないであろう。

(2)ところで、前号でみたように、第二次大戦直後の連合国による「武装解除された敵国軍」ないし「降伏敵国人員」にたいする政策は、必ずしも即時釈放ではなかった。降伏ドイツ軍につい
ては、その労働を賠償として使用することがヤルタ協定で決められていた。労働使役のために連合国側での捕虜引き渡しなども行われている。のちに1949年の新ジュネーヴ条約になって、「捕
虜は実際の敵対行為が終了した後遅滞なく解放し、且つ、送還しなければならない」(118条―横田・高野編『国際条約集』有斐閣、1960年)として「即時解放主義」の立場が明確にされ
るのである。
だが、他方、ドイツ軍についてはヤルタ協定で「労働賠償」が取り決められていたが、日本軍については、周知のように、ポツダム宣言で「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各
自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」(9項)と規定された。したがって、さきに述べた「平和克復」のときという一般原則に加えて、ソ連政府はこれに拘
束される立場にあったわkである。対独政策と対日政策のこの相違を説明する資料を筆者はもちあわせていないが、いずれにしてもポツダム宣言のこの規定はソ連の日本人捕虜抑留政策に
とって無視できない意味をもった。以下の事情はそれを物語るものと思われるのである。
近時明らかにされてきた資料によると、8月16日に、内務人民委員ベリヤ、国防人民委員代理ブルガーニン、参謀長アントーノフが連名で極東ソ連軍最高司令官ワシレフスキーにあてた電
報の中の一項には、「日満軍の捕虜のソ連領への移送は行わない。捕虜収容所は、できる限り日本軍の武装解除の場所に設ける。」という指示がみられる。(注14)こういう指示がだされた
については、おそらく、ヤルタ協定でドイツ降伏後のソ連の対日参戦が予定されたのち、日本軍の捕虜を捕獲した場合ソ連領内に連行して労働に使用するという計画がまずあり、これが前提
となっていて、それの変更が必要となったものとみられる。日本にかんするヤルタ協定では労働賠償の合意はないのであるが、ソ連はドイツ軍捕虜の場合とおなじく日本軍捕虜についても労働
利用を予定していたとみられる。それが一時的に変更されたのは、8月15日にスターリンがトルーマンにたいして日本軍の降伏・武装解除のソ連管轄区域に北海道北半を含めることを要求し
たこと、これとの関連でポツダム宣言9項を尊重する態度を示す必要があったこと、によるのではないかと推測される。
ところが、ソ連政府は、これを再度変更し、8月23日になって、旧満州・朝鮮・樺太・千島での日本軍捕虜をソ連領に連行して労働に従事させることを最終的に決定した。同日の「日本軍捕
虜50万の収容・配置・労働利用に関する」国家防衛委員会決定(特秘文書指定)がそれにたる。(注15)この間、8月16日のスターリンの北海道北部占領要求が8月18日にトルーマン書簡
で拒否され、8月22日にスターリンはそれが拒否回答であることを確認し、かつ不満の意を表する書簡を送っている。(注16)この経過から、スターリンは北海道北部占領を諦めるのと引き換え
に日本軍捕虜のソ連領内抑留を決定したのだ、という推測も成り立つ。ソ連政府がソ連領内抑留を「はじめて」決定した理由ではなく、方針が二転してそれを最終的に決定するにいたる動
機の推測としてである。
いずれにしても、それはソ連政府の政策決定の動機にかんする問題であって、国際法的にそれを正当化しうる理由でないことはいうまでもない。ソ連領移送・抑留という決定の本来の動機に
ついては、「戦争で破壊された国民経済を復興するための労働力として使うことに狙いがあった」という、捕虜管理担当者の説明をまつまでもなく(注17)、捕虜50万の労働配置計画を詳細に
規定している8月23日の前記国家防衛委員会決定がこれを内容的に裏付づける公的文書となっている。
だが、動機はともあれ、このような措置を最終的に決定するにさいしてソ連当局はいかなる根拠でこれを正当化できると考えたのか。「戦時状態」は無条件降伏では終了せず、したがって「戦
争捕虜」はこれを抑留して労働させることができる、というソ連側の主張についてはさきに検討した。それは正当化の理由たりえない。とくに連合国最高司令部とソ連対日理事会の代表がソ
連抑留捕虜の送還について協定を締結した1946年12月19日以降については、ソ連側が「講和条約」締結まで捕虜を抑留する権利があるといった主張をする余地もなくなった。送還の遅滞
が輸送の技術的理由で説明されるのはそのためである(注18)。
なお、ソ連側の政策決定の理由について、我が国では、「役務賠償」密約説とでもいうべき推測が行われてきた。それはつぎのようなものである(注19)。――1945年7月16日-17日頃、近衛
特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼するために作成した「対ソ和平交渉の要綱」の中に、「国体護持」を絶対条件とし、「賠償として一部の労力を提供することに同意
す」(4の(イ))との一項があり、日本政府が役務賠償という政策をもっていたことが明らかである。この要綱自体は、7月段階での交戦相手たる連合国にたいする「和平交渉」条件であるが、
ソ連参戦後は、ソ連との関係でも適用される政策となりえた、と考えられる。近衛特使派遣申し入れはソ連から拒否されたのであるが、「国体護持」のための上記の役務賠償案が外交交渉
過程でソ連側に伝えられた可能性がないか。――これについての詳細な検討は省くが、目下のところこの推測は立証されていない。
しかし、次の事実をみておかなければならない。斎藤六郎氏が入手したロシア国防省古文書館保存の文書には、8月23日以後の時点であるが、8月26日付の日本大本営参謀の「関東軍
方面停戦状況に関する視察報告」および8月29日付の関東軍総司令部の「ワシレフスキー元帥に対する報告」がある。前者には、「在留邦人及武装解除後の軍人は『ソ』連に依頼するを
可とす」、「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と述べられている。後者では、関東軍軍人を旧満州において「極力貴軍の経営に協力する如くお使い願い度い」とし
て、労役使用を申し出ている(注20)。これらの文書をさきの「対ソ平和交渉の要綱」における役務賠償とあわせてみるとき、日本の政府・軍当局の中に「国体護持」との引き換えで在満兵
士・居留民を犠牲にする意図が存在していたことが浮かび上がってくるのである。
以上の諸点についても解明を要するのは、スターリンを指導者とする当時のソ連当局が、ポツダム宣言を無視して、ソ連の戦後復興のために日本軍捕虜をソ連領内で労働に従事させる決
定を行いかつ実行するにつき、これを阻止する国際的圧力が有効に機能しえなかったことである。日本の無条件降伏後、ソ連抑留捕虜の送還について最初の国際協定ができたのは、1946
年12月19日、連合国最高司令部とソ連の対日理事会の代表との間で締結された、いわゆる「ソ連地区引揚米ソ協定」のときである。交戦国でもある日本には当時外交権・条約締結権
がなかった。したがって、この問題について米ソ間でどのような了解があったのかについて、やはりヤルタ会談にまでさかのぼって明らかにしておく課題がのこると思われる。


(1)報告書は、「終戦資料館」で閲覧。報告書・報告時については、ヴェ・ガリツキー「ソ連邦における日本軍捕虜―真実と憶測―」(軍事史雑誌、1991年4号)による推定。報告書の数値
は、10月12日報告のそれと僅少差ながら異なっており、ガリツキーはこれらを総合して独自の計算を試みている。
(2)ガリツキー・前掲による。
(3)関東軍の歴史については、島田俊彦『関東軍』(中公新書、1965年)による。
(4)前同、vi頁。
(5)この問題については、原暉之『シベリア出兵』、筑摩書房、1989年を参照されたい。
(6)大江志乃夫『天皇の軍隊』(昭和の歴史3、小学館、1988年)、198頁参照。
(7)島田・前掲、175頁、藤原彰『日中全面戦争』(昭和の歴史5、小学館、1988年)385頁。
(8)その後、太平洋戦争の展開、独ソ戦の推移とともに、1943年(昭和18年)夏以降、満州配備の兵力のうちからかなりの部隊が「南方戦線」に転用されることになり、関東軍の対ソ戦略
は「全面持久戦構想」に転じ、「全軍的築城」が進められる。しかし、1945年4月、ソ連が日ソ中立条約の破棄通告を行うにおよび、緊急動員体制をとり、7月には在満在郷軍人約40万人
のうち行政や輸送その他の要員約15万人を除いた25万人の「根こそぎ動員」を行い、1945年7月末には約70万人の兵力が編成された。島田前掲、182頁以下参照。
(9)家永三郎『戦争責任』(岩波書店、1985年)、164-165頁参照。
(10)日ソ中立条約廃棄通告に関する覚書―クタコフ(ソビエト外交史研究会訳)『日ソ外交関係史』第3巻(刀江書院、1969年)、5頁。
(11)清水達夫『平和条約締結促進のために』(日ソ協会、1992年)、16頁による。
(12)ヴェ・ガリツキー「ソ連における日本人捕虜収容所関するアルヒーフ」、極東の諸問題、1990年6号、120頁。この種の見解は他にもある。朝日新聞社『日本新聞』1(1991年)付録のコ
ワレンコのインタビュー参照。
なお、ソ連は1929年7月27日調印のジュネーヴ2条約のうち、「戦地軍隊に於ける傷病者の状態改善に関する条約」は1931年に批准したが(ガリツキー前掲、国際法教程X、1969年346
頁では1930年加入とす)、「捕虜の待遇に関する条約」については、世界の最も“自由な国”の道徳的・経済的制度とさえ両立しない条項があり、他方では勤労者としての捕
虜の権利を保証するものでない、との理由で批准しなかった(YuriTeplyakov, Prisoners of war, Moskow News, 1990,No.19.参照)。日本もこれを批准していない。1946年ジュネーヴ条約
は日ソ両国とも批准している(それぞれ、1953.10.21、1954.11.10)。
(13)1929年ジュネーヴ条約等にかんしては、立作太郎編『改版国際条約集』(1933年)による。ただし、仮名づかい等一部変更。以下も同じ。
(14)「オーロラ」19号(1994.11.15)所収。「終戦資料館」の8月16日電文のタイプ書取りには発信者名に肩書き、ファースト・ネーム、ミドル・ネームの略記がない。
(15)前同所収。
(16)これらの書簡は「オーロラ」19号に収載。
(17)注12のコワレンコ・インタビュー参照。
(18)前同。
(19)例えば、斎藤六郎『シベリア捕虜志』(波書房、1981年)第二章、清水達夫「抑留問題について」、「日本とソビエト」、1990年9月1日号など参照。なお「国体護持」は8月15日の「終戦
の詔勅」でもううたわれており、これを受けた8月14日の内閣告諭でも力説されていた。
(20)これらの文書は「オーロラ」19号に収載されている。引用にあたり、一部仮名書きを平かなに変えてある。第二次世界大戦と捕虜問題(3)=『ユーラシア研究』No.10(1996年1月号)







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